または、草むらから呼び止められる声が聞こえたような、そんな感覚。
スマホを出して構図を決めるより前に、「何かに呼び止められる稽古」がいつも挟まっていたなと気づかされました。
10歳くらいまでの子どもと散歩していると、みんな自然とやっていますよね。スーパーにおつかいに行こうとしても、なかなか目的地にたどり着かない、みたいな。
けど段々、脳みそが優位になってしまって、足は止まりたいと言っているのに、心は呼び止める声をキャッチしているのに、気づかないフリをして、スタスタ歩き去ってしまうようになる。
やがてそんな声も聞こえなくなり、立派な大人になったつもりでいる。
整体操法を受けた帰りの山道、まるで7歳児にかえったみたいに、立ち止まっては道端にしゃがみこみ、草が揺れたり、水が流れたりする何気ない風景に夢中になりながら、何時間もかけて駅へ向かったことをふと、思い出しました。
私にとって「整体とは何なのか?」「晴風とは何なのか?」の一つの答えに、「純粋な好奇心を取り戻す」ということがあります。
野口晴哉先生は、次のように語られています。
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丈夫な子供たちは、一心に積み木をして遊んでいる。積んでは壊し、壊しては積む。彼らにはその行為そのものが楽しいのだ。
大人が近づく。上手に積んだことを褒める。
子供たちはその時から上手に積むことに興味をもち、褒められる為に積むようになる。自分の為したことを自分で楽しむことができなくなり、大人の目に上手に映るように積む。
子供の楽しみを、大人が奪ったのだ。
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野口晴哉 著『風声明語2』(全生社)より
そうそう、私も恐らく十歳前後から、すべての行動の動機が、「褒められる為」に取って代わられ、「ただただ意味のないこと」や「ただただ無駄なこと」などを、純粋に楽しむことができなくなっていったなあと、思い返しました。
そんな十代の頃に比べれば、四十代となった今の方がずっと、「意味目的のない時間」を、純粋に愉しめるようになったような気がしています。
さて、写真はまだまだ大阪駅の近所ですが、今日の目的地、『ザ・シンフォニーホール』の話を。
オーストリアの指揮者カラヤンが「ウィーン楽友協会大ホールに比肩する」と絶賛した「残響2秒」の極上の音響空間だそうですが、ともかく良い音が聴こえるホールです。
そこで今日は「純正律」に調律したピアノ演奏を聴きに行きました。
今日はとっても響きの良いホールに、2台のピアノ(純正律と平均律)を並べて、音の聴き比べをさせていただけました。
「聴く稽古」です。
今日は「聴く稽古」だなあと思っていたのですが、
「どうして演奏会に来ちゃったのか?」の答えが、単に「演奏を聴くため」になるはずもないんですよね。
【なんで、ここに来ちゃったのか?】(5/13の投稿)でも書きましたが、私たちは
「本当に自分の意志100%で、ここに来たのか?」
と自分に問い直してみると、私たちは無自覚な過去や未来の焦点によって、導かれるようにここに来ちゃっているのではないかと思えてきます。
今日は、81年前の記憶と繋がっているように思えた、そんなお話をしたいと思います。
















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