2026年5月13日水曜日

【なんで、ここに来ちゃったのか?】13日(水)

今日もまた、ゴミ集積所までの小冒険。
毎日、惹かれるものを撮って記録していくと、自分が何に惹かれているのか、何を美しいと感じているのかが、浮かび上がってくるような気がします。

木漏れ日の道の奥へと、呼ばれていくような、吸い込まれていくようなこのロケーションはどこか、先日訪れた春日神社を思い出しました。

以前にも「スポットライトが動いていく」と書きましたが、左の写真で主役と脇役を決めたはずなのに、右の写真になると、なぜだかいつも、配役が変わってしまいます。

こちら(↑)の左の写真は、「草」「木」「電柱」「建物」と『そこに在るモノ』を主要キャストにしていたはずなのに、右の写真を見ると、「空」とか「窓の中」とか、『モノが無いところ』に目がいくような気がします。

こちら(↑)の左の写真は、奥に吸い込まれていく、私の好きなロケーションです。私が思い描いたストーリー的には、マンホールがひょっこり左隅から顔を出して、奥へ続いていく歩道を見つめている感じです。

一方で右の写真になると、吸い込まれていく先の消失点は構図からバッサリカットされてしまい、「ひょっこりマンホール」が大胆に登場してしまいました。

マンホールが見つめる先は彼方ではなく、一歩先の陽だまりに変わりました。その陽だまりに一旦目がいってしまうと、今度は主役の座がマンホールから陽だまりに移ってしまうような感じがします。

陽だまりが中心になることによって、左の車も、建物の上にある光源も、逆光に浮かぶ樹のシルエットも、マンホールの右のアスファルトのツブツブも、存在感を増してきているような感じになってきます。
 
帰宅して、道場から見上げる北の空。板に貼ってあるのは、昨日の稽古会前に、お互いにふっと浮かんで書いた言葉です。

いつも、稽古会に来る方に、言葉を書いていただいています。一人一人の個人から出てきた言葉が、稽古をする中で、所有から離れて、「場」に溶けていく。今回は、九州からやってきた身体から生じた言葉と、東京から運ばれてきた言葉が、京の都で溶け合って―。「私の」だった言葉がやがて、「私たちの」言葉になっていきました。

そんな体験をしています。

今日の午前中は、御室稽古場にて出稽古。
お昼過ぎの帰り道、晴天の霹靂で、仁和寺の仁王門の上に、稲光が真横に走っていました。

「そんな決定的瞬間にシャッターが切れるかも」と淡い期待をしていつもの撮影動法を実行しましたが、撮れたのはいつも通りの、「劇的ではないが、不思議な写真」です。  

帰宅直後―。大雨と雹(ひょう)がガラスを叩き、「窓が泣いている」という昭和歌謡にありそうな比喩が自然と沸きあがってきます。

こんな大雨の中でもお一人、花園稽古場に来られて、夕方まで稽古をしました。
そこで私が尋ねたのが、

「なんで今日、ここに来ちゃったんですか?」

来ない理由はたくさんあったはずです。家も遠い。仕事で疲れている。今朝も御室の稽古会に出席した。午前の稽古会も予定より長引いた。雷鳴が響き、大雨が降り、雹まで打ちつけてきた。

それなのに―、来てしまった。そんな悪条件の中でここまで、自分の身体を運んできてしまったその大もとには、何があったのか?

   ◆

この問いは、花園稽古場の初回、道場開きの時から、訪れる皆さんに投げかけている問いです。「ここ」というのは、単に空間的な場所を指すだけではありません。

どんなことでも、5年や10年も続けてくれば、どこかでやめるタイミングがあったはず―。家族や友人との関係―、仕事や将来のこと―。いろんな要因を、「やめる理由」として採用することができたはず―。

それなのに―、やめずに―、ここまで来てしまったのはなぜか?

私もそうです。この3月に東京から京都へ引っ越してきたのですが―、なんで? ここに来ちゃったのでしょうか?

東京に住み続ける選択肢もあったはず。東京か京都か―、メリットとデメリットを比較すればむしろ、東京のメリットがいくらでもあって、京都へ移ることには、デメリットの方がたくさん出てきます。

例えば東京には、融通が利いてお給料の良いお仕事がありました。人間関係にも恵まれていました。10年間続けてきた稽古会の地盤もあった。40年間、関東圏で暮らしてきたので様々な人のつながりもある。京都へ移るにはそれなりの費用もかかる。

それでも、来ちゃっているわけです。なぜか―。

野口晴哉先生は、こんな言葉を遺されています。
 
 
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健康とは、安全無事な肉塊をいうのではない。

常に裡(うち)から、活き活きした力を産み出してやまない、そのはたらきこそ健康というのだ。

   ◇

異常を除いて、正常であろうと考えている養生人は多いが、問題は異常ではない。

問題は、異常の中に正常を保っている体のはたらきである。

それがどのようにはたらいているのか、それを確かめることに、養生の道がある。
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野口晴哉 著『風声明語2』『風声明語』(全生社)より
 

あらゆるデメリットを取り除いて、たくさんのメリットを積み上げれば、それで幸せな人生になるかと言えば、そうではないですよね。
 
たとえどんな逆境にあったとしても―、たくさんのデメリットを抱えていても―、たった一つの光が、時に私たちを生かしてくれることがあります。

私たちは無自覚にも「それ」を活かして、「なぜだか知らないけれど行動しちゃっている」ということがしばしばあります。損得で考えれば絶対にやめておけばいいのに、ついやっちゃっていることが実は、長い目で見たときに、人生を支えてくれていることがあります。

「その行動の前に、何があったのか?」
「何が、絶望や逆境の中で私たちを支えてくれているのか?」

それを問い続けることを、私は引き続き稽古していきたいと思います。

一度答えを出せたとしても、その答えはまた変容し続けていく。私たちの「今」を支える過去の焦点は、動き続けていきます。

ふとした時に、今いる足元を見て、問い直してみてください。

「なんで私はここに、来ちゃったのか?」
「どうしてこんなところに、たどり着いちゃったのか?」

そこからまた、稽古を始めていきましょう。
(↑なぜか今日はブレなかった右の夜空)  

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