2026年6月13日土曜日

【わけがわからない集注の中で、静かに待てること】(西陣出稽古) 13日(土)

今日は、西陣稽古場へ出稽古です。
稽古を終えて、門を出たときに出会った足元の生命。
門をくぐる前には全く見えていませんでした。

時間ギリギリに到着した朝。
汗を拭(ぬぐ)いながらここを通過した時の自分はもしかしたら、何も気づかず、自転車のタイヤで踏みつけていったかもしれません。

   ◆

稽古に臨むということは、「いったん俗世から離れて、感覚の世界に深く潜っていく」ようなものです。

稽古を終えて門を出ると、依然変わらない俗世がそこにはあります。しかしどこか、見える世界、感じられる世界がガラリと変わっている、そんな風に思えることがあります。

見えていなかったものに気づく。聞こえていなかった音を拾える。察することができなかった人の気遣いや優しさを悟り、受け取ることができる。


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世界が変わったのではない。自分が変わったのである。

自分が変われば世界は変わる。自分の世界の中心はあく迄(まで)も自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。

自分がこの心を持ちつづける限り、この世界はいささかも変わらない。

何と楽しいことではないか。自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。

人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。いつも活き活きしている。

大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。
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野口晴哉 著『風声明語』(全生社)より

帰りみち。閉門後の北野天満宮にて。

この写真(↑)を撮るときに初めて気が付いたのですが、狛犬も二基でそれぞれ「阿吽(あうん)の呼吸」の口をしていたのですね。

金剛力士像の「阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)」だけかと思っていました。

「あ」という口を開いているのが向かって右手の獅子ですね。

「うん」の口で閉じているのが左手の狛犬だそうですね。

本日の筆動法稽古で体験したことを思い返しながら、撮影動法に転用して、あれこれ試してみました。

鳥居をくぐり、参道を進んでいくと、また新たな獅子に出会いました。

ここでは自分でも「あ…」と発語しながら、そこから生じてくる身体感覚を捉えて動き、撮影してみました。

こちらは「うん…」とつぶやくことによって生じる感覚を見つめて、そこに自分の客体を乗せながら動いて撮影してみました。

「在るもの」に目が行くか、「無いところ」に目が行くか。

本日の稽古で教わったことの中で、これは面白いなと感じたものの一つに、「これだ!」と一旦思えた集注を「崩す」「笑い飛ばす」というものがあります。

私たちは、一旦「これが大事だ!」っていう手ごたえを掴んでしまうと、ほかのあらゆる場面においても、一旦つかんだその感覚に、無理やり持っていこうとしてしまいがちです。


たとえば、
「肚(はら)が大事だ!」
「腰が大事だ!」
「丹田が大事だ!」
「みぞおちに穴が開くのが大事だ!」
「ゆるむことが大事だ!」
「引き締まることが大事だ!」
「しずみが大事だ!」
「速度が大事だ!」
「身体集注が大事だ!」
「執着を手放すことが大事だ!」
等々。


「丹田が大事だ!」っていう感覚に唯一絶対の信頼を置いている人がいたとして―。

ある稽古中に、「丹田が出てくる」という感覚を得た瞬間にどうなるか?

「よし、これで大丈夫だ。なぜなら丹田が出てきたから」というところで満足して、その先の展開を追えなくなってしまうかもしれません。

または「丹田らしきもの」を全て「丹田」ということにして片付けてしまい、何の疑いも持たずに浅い集注で終えてしまうかもしれません。


本日の稽古のキーポイントは、一旦捉えた、「一見よさそうな感覚」を敢えて崩してみること。そしてその後に生じてくる新しい感覚を、焦らず静かに、歓待できること。

「何もつかめない」、「わけがわからない」という集注状態に入っている時、私たちは、

「自分は全然集注できていないんじゃないか?」
「みんなが捉えている感覚を、自分だけ理解できていないんじゃないか?」

と不安になりがちです。

不安になると、待つことができずに、自分の馴染みのある「いつもの感覚」にすがろうとして、後戻りしてしまう。そんなことがあるよなあと、稽古の中でしみじみ思いました。

   ◆

あとちょっとだけ待てたら、その先の深い集注に潜れたのに―、新たな境地に進めたのに―、自分のよく知っている、自分の庭で全部済ませて、「安全・安心」の浅いプールに足を浸して稽古したつもりになってしまう。

こちらはしばらく、取り組んでいきたいテーマだなと感じました。改めてこちらのブログでも、深めていきたいと思います。
そんな中で本日新しく出会ったのが、「低い余韻」という言葉。

本日の稽古会一日を通して向き合い続けたテーマでしたが、わかったようなわからないような、つかまえられたような、空振りしたような―。

私なりに捉えられた感覚としては、テーブルの上にこぼれた水がサーッと拡がっていくような―、ドアの下の隙間から漏れた冷気がフワーッと地を這って進んでいくような―、そんなようなものでした。

右の写真(↑)では、その感覚が少し伝わるでしょうか?

「わかったような、わからないような―」
そんなのがきっと、「佳い稽古」の経験なんでしょうけれども。

「低い余韻」って何なんだろうな…

と思いながら、閉門後の、人気(ひとけ)のない参道で、私なりに捉えた「低い余韻」の感覚を求めて、撮影動法に勤(いそ)しんでおりました。


撮影動法における最近の大きなテーマは、スマホのシャッターを押す最後の指です。

いかにその指から、意志を抜いて押せるか。能動の色を出来る限り薄めて、受動的に「押しちゃう」指に持っていけるか。

その為の手法として、手順を複雑化したり、出来るだけ遠回りしたり。

たとえば、「左足の薬指が主体になって、右手の親指を動かす」みたいな感じです。

最近は、周囲に人が歩いていても、平気で自身の集注に入っていけるようになってきました。

「成長」という観点からみれば、周囲の通行人の存在が、私の集注する力を育ててくれたと、言えるかもしれません。

それよりも最近は、じっと目を閉じてスマホを構えていると、やたらと蚊に刺され放題なので、その痒みをいかに稽古化していくか、それが新たな課題です。

帰宅して、ゴールデンタイムの窓辺から。

こちら↑の写真を見比べて、ふと思いました。だんだん意志で撮る写真(左)の構図が、変わってきているなあと。

「どこに美しさを感じるか」、「何に惹かれるのか」という、いわゆる「好み」が変わってきているように感じました。

「結果として見えるもの」、「作品として残るもの」としての「写真」をテーマに稽古を重ねてきた副産物ですね。「書」を題材とした筆動法も、同じことが言えると思います。



今日もよき、稽古の一日でした。



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