2026年4月27日月曜日

「話せばわかるなんて嘘です」~過去に向かってくということ~

本日の朝稽古は、お墓参りにて遭遇した、でんでんむしがお相手です。

昨晩は、私の出生地である、東広島市安芸津町のいとこ宅へ泊めてもらいました。

瀬戸内海を見下ろす山の中腹。いとこの家からさらに山道を登っていくと叔父の墓地があります。雨上がりの砂利に、しっとりとした落ち葉が降り積もっていました。

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一枚ずつ取り除いていくと、カタツムリが姿を現したので、ここ最近の手順にて、撮影動法稽古のお相手をお願いしました。

いつものように、左の画像が1回目の「私が撮りたい構図」。右の写真が2回目で「私が撮らされた瞬間」。

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私の感覚だと、左の写真を眺めていると、カタツムリの殻が、私の目にダイレクトに飛び込んでくるような気がします。これは比喩表現ではなく身体感覚として、特に左目に感覚が出てくる感じです。

右の写真を見ていると、骨盤が右に動いてくるような気がします。そのあと右肩が前に出てくるような身体感覚が出てくるような、そんな気がします。

これは、今の私の感覚です。正解も不正解もありません。先日、狛江の道場にて先生が次のようなお話をされました。狛江稽古場は、先生が育ったおうちでもあります。
 
 
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よく、「話せばわかる」なんて言いますけど、あれは嘘です(笑)

話したぐらいでわかりっこない。育ってきた環境も違う。経験も違う。見てきた時代もズレている。

山中君、キミ今いくつだっけ? ああそう。僕と35年もズレてるのね。キミには今この部屋がどう見えているのか?なんて、僕にわかりっこないんですよ。想像もできない。

現在同士で語り合っても、ますますズレていくだけです。

でもね、お互いに過去に向かっていくと、どこかで響き合えるんです。過去のどこかで、響き合える身体が出てくる。

例えばね、過去に同じようなシチュエーションで負った傷とかだね。それは物理的なケガもそうだし、心の傷もそう。どちらにしてもそれらは身体の感覚に刻まれている。

だから身体に集注するということは、過去に集注していくことだとも言えるんだよ。お互いに過去に向かって行く中で、どこかの地点で響き合える。それを我々は「感応」と呼ぶ。

だから、現在同士の感覚でいくら話しても通じ合えないが、お互いに過去に向かっていくとき、どこかで通じ合える瞬間が訪れるんだよ。
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そこからもう一度、カタツムリの写真を捉え直してみます。左の写真は、私が「こう撮りたい」と意図した写真です。私の意志が色濃く反映されており、ベクトルは基本的に一方通行。私が、カタツムリを撮る。私が、構図を決める。見る人は、私の撮りたかった写真を見せられる。

右の写真は、幾分か私の意志が薄れて、参加型になっています。撮る役だった私も参加者。カタツムリも参加者。見るあなたも参加者。見る時の私もまた参加者。意志を消していくと、「場」が立ち上がってきます。

「場」とは何か? シンプルに言えば、「みんなが参加できる空間」ということです。

だから、私が正解を示せるわけがないんです。けれど、私に生じた感覚を伝えてみる。正解を求めて回答するためじゃない。表現することでまた相互共鳴が起こり、新しい感覚の響き合いに繋がっていくから、伝える。次に生じてくる、新しい場のために。

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きっと同じ「カタツムリ」を見ても、そこから引き出される過去の記憶や体験は個々に異なる。「墓石」に対してもそう。「木漏れ日」もそう。「写真」もそう。

だからこそ、自分は身体のどこにまず響いたのか、そのかすかな感覚を絶対的にまず信頼するところから、まず始めたいんです。

そのときに、「腰って答えたほうが正解っぽいから」とか、「今はお腹の季節だって教わったから」とか、そういうのが全部ノイズになってきます。

まず最初に、「右に動くような感覚、だいたい骨盤辺り」として捉えたなら、そこから始めます。それが何を意味するのかはわかりませんが、その感覚をたどっていった先に、私が撮らされた写真と、響き合えるような過去にいずれ到達するときが訪れます。

その、「ある過去を捉えた瞬間」が、前に進むための原動力になることが、往々にしてあります。それはきっとその瞬間に、観が動くから。「これはこういうもの」「これはこうあるべき」という観念がふっと外れる瞬間です。

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そんな瞬間が、安芸津町で過ごした今日の一日の中に、たくさん訪れました。今朝のでんでんむしとの稽古会は、それを迎え入れる準備だったようにも思えます。

今日は町内の五軒のおうちを訪ねて歩き、未知なるたくさんの過去と響き合えた気がします。そしてまたその体験も、稽古として言葉にしていけたらと思います。

生まれた町をめぐり歩き、気づけば日も暮れていました。














今夜は海辺に建つ、別のいとこの家へ、急遽泊まらせてもらうことにしました。波の音を聴きながら、今日一日を振り返っています。

明日、やり残したことを済ませてから、京都に帰ります。

2026年4月26日日曜日

「行くかどうか、悩む理由が値段なら行け」東広島出稽古

 


「悩む理由が値段なら買え。買う理由が値段なら止めておけ」

投資や買い物の格言として言われる言葉です。


今日は東広島稽古場にて、合同稽古会に参加してきました。私が稽古会の情報を知ったのは今月の初旬。行こうかどうしようかと少し悩んだ際に、上記の格言を思い出しました。

野口晴哉先生(1911-1976)は、「何事も、裡(うち)の要求によりて為せ」「裡(うち)に為さんと欲したら直ちに為せ」と説かれました。

「食べたいなら食べる」「行きたいなら行く」というのが、一般に裡の要求だと思われがちです。ただ、「食べたい」「行きたい」の動機付けに「お金が高いか安いか」や、「手間がかかるかどうか」が混じってくると、ややこしくなってきます。

そこにあるのは損得とか効率とか、安定とか安心といった、精神(とか脳みそ)が求めている要求であり、体(とか本能)は求めていないということが、往々にしてあります。

損得とか効率とか、安定安心を犠牲にしてでも、得たいと思える何か、それが裡の要求と捉えることもできるのではないかなと思いました。

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それを逆手に利用すれば、むしろ明快かもしれません。つまりこういうことです。「お金が高いから悩んでいる」「お金が安いことが決め手でやろうとしている」と気づいた時点で、冒頭の格言のように逆張りをすれば間違いない、と言えるかもしれません。

むしろ、そのハードルを越えて行ったからこそ、得られるものがたくさんあります。それは例えば、自分への信頼です。

20代の頃、私は毎日のランニングを習慣化するために、敢えて雨の日に走り始めたことがありました。

「あんな雨の日でも自分は走った」という事実を先に作ることが、自分へのポジティブなレッテル貼りになり、「自分はあの雨の日でも平気で走った奴だから、これくらいの悪天候でも続けられる。問題ない」と、自然に思えるようになれます。

「あんなに遠い稽古会だったけど、自分は参加した」「自分にとっては安い出費ではなかったけれど、それを上回る裡の要求を感じたから行くことにした」

その事実の積み重ねが、のちのち自分の行動力を支えて、次のアクションを起こしやすくしてくれることが大いにあります。

だからこそ、そのハードルが高いほど、参加への障壁が多いほど、その行動によって得られるリターンは、目に見えない本質の部分で増大されていくと言えます。

4月から本格始動した晴風学舎の中で、様々な企画が立ち上がろうとしているようです。その流れに乗るかどうか、悩むことがあるときに、常にここに立ち帰りと思います。

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裡に為さんと欲したら、直ちに為せ。
成否のために為すな。
裡の要求によりて為せ。
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(野口晴哉著『風声明語2』全生社より)

2026年4月25日土曜日

光であると見立てるところから始める

本日の稽古会はお休み。大阪府箕面市まで、とある上映会へ行ってきました。

「究極の家庭料理」を追究し続けている「御食事ゆにわ」が大切にしてきたこと、そして開業から20年間、そこに携わってきた人たちの変化、成長が描かれていました。

「御食事ゆにわ」は、私が16年ほど前、東京の飲食店に勤めていた20代の頃に、勉強で半年間通っていたお店でした。

当時は例えば、雑然としたところに置いたコーヒーと、キレイに整えたところに置いたコーヒーを、30分後にみんなで飲み比べて味の変化を共有し合う、みたいなことから、いろいろ体験させていただきました。いま思えば「観が動く」の連続でした。

そこでは、「場の持つ力」、「ものに対する自身の態度によって、ものもそれに応えてくれること」、「自分に適うものを選ぶ基準とは?」など、今の活動にも通ずる大切なことを教えていただきました。

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本日の上映会では、「光であると見立てるところから始める」という言葉が印象に残りました。

お野菜も、お魚も、ただの物体ではなく、本質は光であると捉えること。光として大切に扱い、調理し、有り難くいただく。

私は今朝も、道場のお花を生けなおして、昨日までと同様に稽古として写真を撮りましたが、明日は、「このお花も光であると見立てて」、生けて、撮影の稽古に臨んでみたいと思います。

「そう見立てる」って、いい言葉ですね。

私が教わってきた晴風学舎のJ先生が以前、次のようなことを話されていました。
  
 
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「このヒザがバカになっちゃって」という見方を、自分で自分の身体に対してしまっていることが問題で、「バカなこのヒザ」という捉え方、つまり「身体観」がそこから動かないと、他動的に治療しても根本解決にはならないんだよ。

野口晴哉先生がいろんな著書や講義録の中で、そのようなことを繰り返し説かれているのに、読み手や聞き手側に、そもそも「固定化された身体観」という前提があるから、どんな話を聴いてもみんな自分の前提からでしか読み取ることができない。どんな言葉も自分にとって都合のいいように、無自覚に本来の先生の意図をねじ曲げて受け取ってしまう。

だからこそ、言葉でいくら説いても何も変わらなくて、その身体観が自ずと動くような、身体感覚を通じた稽古をやっていくしかないんだよね。
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だから我々は、みんなで稽古をしていくわけですが、映画館とか講演会なんかでは、「場」の力が立ち上がっていて、ただ座って観ているだけなのに、その場のエネルギーに巻き込まれていくことが往々にしてあります。

今日もそんな場の力を感じました。特にビジネスで上映している映画ではなく、「自主上映会」ならではの、そこに関わる人々の想いが感応し合って立ち上がってくる場があるなあというのを痛感します。

何の気なしにそこに行くだけで、身体観が動かされてしまうような、長年の固定観念があっさりズラされてしまうような、それが、場の力だなあと感じました。

本日私は一人で観に行ったのですが、会場では、以前東京でお付き合いのあった方と十数年ぶりに偶然の再会を果たす、なんていうシンクロニシティもありました。

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「〇〇であると見立てる」こと。ここからいろんな稽古を展開していけそうです。昨夜は、「たすき」を使って立ったり座ったりするという一人稽古をやっていたのですが、昔の稽古日誌を読み直していると、「道具は感覚の代用になる」という言葉が出てきました。たすきを両手でピンと張って表れてきた感覚を扱うことによって、たすきを、身体の一部であると見立てているわけです。

「たすき」でどんな風に感覚の代用とできるか? それはまた、いつかの稽古で―。

2026年4月24日金曜日

スポットライトが動いていく

お花を生けるとき、写真を撮るとき、どこに焦点を合わせるか?

言い換えると、どこにスポットライトを当てるか?
誰を「主役」に立てるか?

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今日も同じお花を生けなおしました。そして、昨日と同じ手順で撮影してみましたが、スマホのスライド方向だけ、昨日と反対にしています。(昨日は右にズラして戻しパシャリ。今日は左にズラして戻しパシャリ)

昨日の投稿と同じく、左の写真が1回目、右の写真が2回目です。何か、違いを感じますか? 間違い探しではなく、印象の違い、感じ方の違いはどんなものですか?

今日は「スポットライト」「主役」という観点から写真を比べてみます。左右の写真で、それぞれ「主役」になっているのは誰だと思いますか?

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最初に撮った左の写真では、構図を決めようとしたときに中央の空間の奥にある、背の低い一輪に何となく惹かれて、意図してそこにピントを合わせています。一番奥からスッと立っている感じ、ひそめている感じに何となく惹かれていました。

そしてフレームに収める構図として、意図してその子を「主役」に立て、焦点をつくったつもりです。

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続いて2回目に撮った右の写真。昨日の手順に沿って、目を閉じて撮ったので自分の意図は介在していません。こちらの写真の「主役」は、誰に見えますか?

人によっていろんな見え方ができると思いますが、正面上の大輪のユリ(アルストロメリア/インカユリ)と、右下で画面外に向かって垂れ下がっているカーネーションの2者が、W主演になっているように、私には感じられます。

そして2人の主役を陰から支えているのが、1枚目の写真で主役だった奥の小さなカーネーションじゃないかなあと感じます。

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私がシャッターを切ったわけですが、2回目はそこに意図が無くなっているので「これは何なんだろう?」と自分で不思議がれる余地が生まれてきています。

自分の意志が薄れて、自分と花の関係が、「撮る側 × 撮られる側」という関係性から「一瞬を切り取るゲーム」に一緒に参加している「参加者同士」みたいな関係性になっているような感じがします。

私たち晴風学舎では、「場が立ち上がる」とか、「観が動く」とか、「”我と彼”の関係が”我と我ら”の関係になる」とかいう表現をしたりします。

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誰かがトランプを持ってきて、「ババ抜きしようよ」と言い出したとき、最初のきっかけを作ったのは一人だとしても、やがてみんなババ抜きに夢中になっていく中で、「誰がやろうって言いだしたんだっけ?」ってわからなくなるような―。

むしろ始めは「えー?面倒くさいよ。疲れてるからやらないよ」とか言ってた人が、最後にはムキになって勝ち負けにこだわってるとか、そんなことありますよね。

ババ抜きの主役が、始めは6歳の女の子だったのに、いつの間にかお父さんが場を仕切りだして率先してカード配ってるみたいな(笑)

最初は個々に別々の事情から、誰かの提案に仕方なく乗っかったハズだったのに、みんなが互いにその「場」に吸い込まれるように、巻き込まれていき、お互いがお互いを深い集注にいざなっていくような―。

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花園稽古場の始まりもそうでした。一番最初の稽古会、「道場開き」を4月19日に行ないましたが、そんなババ抜きのように、ここで道場をやりますと言ったのは私ですが、そこにいろんな人のエネルギーが乗っかってくる内に、私もそれに巻き込まれるようにして、スタートしたのでした。

稽古場を右京区花園で開くことを、身近な何名かにお伝えすると、「稽古日程決まったら教えてくださいね」という答える人が大半です。そんな中で、「この日なら行けます!」「この日にやってくれたら参加します!」というMさんのもたらした「勢い」によって、私の内的世界でも、4月19日に強制的にスポットライトが当てられました。

そして「その日」を一旦定めると、「ちょうどその日ならたまたま空いてるので行きます!」というYさんが引き込まれてきて、場が動き始めました。数日前まで、東京から引越してきた段ボールが積みあがっていた和室が、みるみる道場になっていきました。

どんなに小さな小石でも、池に落とせば波紋が拡がり、また跳ね返ってくる。そんなことを実感として体験している気がします。ふと気がつくと、道場を立ち上げていくこと自体が、晴風の稽古になっていました。

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冒頭のお花と写真もそうです。きっとすごいプロが生ければ、写せば、もっと感情を揺さぶるようなものができるのだと思います。

それはきっとすごいことだけれど、素人の私たちだって、そこに立ち現れてくる何かを、ともに楽しむことのできる感覚が、こんな身近なところにあるのだと気づくこと。そこからきっとが日常が豊かに、鮮やかに、輝き出していくのではないかと、私は晴風の探究をする中で感じています。

今日また、お花を生けなおしたことも、写真を撮ったことも、このブログ記事を書いたことも、これ自体が私の稽古であり、晴風の探究です。それは誰かに理解を求めるものでも、説得させるものでもなくて、意味目的が消えていくようなものです。

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と、いうつもりでやってはいるものの、書かれた文章を読み直してみれば、「ほらこの3行目とか、思い切り説得しようとしてるじゃん」とか、「この表現とか、意図して狙ってるじゃん」とかいうものが、書いていくとやっぱり表れてきてしまいます。

けれどそれは、書くことを始めたから捉えられたもので、ともかく下手でもカッコ悪くてもバカにされても、「やり始める」しか道はない。その先に、本当に求めているものがあるなら。下手さがバレるのを承知で、稽古をするしかないんですね。

全てパーフェクトには行かないことに、ガッカリしたり、腹が立ったり、思い悩んだり―、でもそれこそが、稽古の醍醐味であり、それを含めて面白がることができれば、全てが力になって、身についていく。そんな風に日々私は感じている、稽古の日々です。

「不正解かもしれないけどともかく自分なりにこう感じる」という身体感覚を用いてお花を生けてみること、身体の動きに集注して新しい写真の撮り方を試してみること、その身体経験を言葉にしてみることによって、自分が意志で当てていたスポットライトが動かされていくそのこと、それ自体が面白いと感じるから、やってるだけなんですよね究極的には。

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そのスポットライトというのは、言い換えれば「思い込み」とか「固定観念」という言葉にできるかもしれません。

自分の思い込みが、意図せず離れていく。同時に、何らかの執着が離れていく。「ああ、何だこんな小さなことに、自分はこだわっていたのか」「執着していたのか」と。それは、しがみついていた時には捉えることができず、離れていったときに初めて発見できるもの。

例えば爪切りをして、指から爪が離れたときに、無自覚だった爪の存在を手に取って感じられるとか。家の中にいる時には気づかなかったけれど、外に出てみたら「こんな色の家だったのか」と気づけるとか。勤めていた会社や、住んでいた町なんかもそうですよね。ある種の固定観念という枠から出たときに初めて、それが自分の観念だったと気づくことができます。

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それが何に繋がっていくのか、何の役に立つのか、それはわかりません。けれど私たちの生きていく力を支えている根源は常に、「論理的に教えられて理解できたもの」よりも、「よくわからないけどよさそうだと感じるもの」ではないかなと思います。

最後に今日も、野口晴哉先生の言葉をご紹介してまとめにしたいと思います。
 
 
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『背骨で息する』

だるいとき、疲れたとき、身体に異常感があるとき、心が不安定なとき、静かに背骨で息をする。腰まで吸い込んで、吐く方はただ吐く、特別に意識しない。

この背骨で息することを、五回繰り返せば心機一転、身体整然とすることが、直ちに判るであろう。

背骨で呼吸するといっても、捉えどころがないという人が多いが、捉えた人は、みんな活き活きしてくる。顔が全く異なってくる。

なぜだろう。平素バラバラになっている心が一つになるからかもしれない。生理的な働きが広まるからかもしれない。

ともかく、人間はこういう訳の判らぬことを、一日のうちに何秒間か行なう必要がある。頭で判ろうとしてつとめ、判ってから判ったことだけ行なうということだけでは、いけないものがある。

心が静かになったとき、自分の心に聞いてみるがよい。広い天体のうちの一塵である地球の上の人間が、判ったことだけやろうとしているその寂しさが判るであろう。

疲れたまま眠るより、乱れたまま心を抑えるより、まず背骨で息をしよう。その後でどうなるか、そういうことを考えないでやることが脊髄行気の方法である。
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(野口晴哉著『風声明語2』全生社より)
  
 
「ともかく、人間はこういう訳の判らぬことを、一日のうちに何秒間か行なう必要がある」という文言が私は大好きです。

花園駅前にあるビルの一室で、畳のすみっこに飾られたお花にスマホを向け、目を閉じている私は、明らかに「訳のわからぬこと」を毎日やっている一人です(笑)

窓の外を見下ろせば、ビジネスマンや学生さんたち、観光客の外国人たちが歩道を行き交っています。

この町が箱庭だとして、空から私たちにスポットライトを当ててみたらきっと面白いですね。「通りをゆく人 × 和室で目を閉じスマホを構える人」の対比。もしかしたら、他の部屋でも「訳のわからぬこと」に取り組んでいる人たちがそこかしこにいるかもしれない。

そして私もまた、一歩外に出れば、「通りをゆく人側」になるわけで、その境界線の行き来の際にもまた、身体感覚に集注すれば、身体のどこかにスポットライトが当たってくる様子を捉えられるのですが、それはまた、いつかの稽古で―。

ありがとうございました。

2026年4月23日木曜日

はじめに

この2枚の写真。何か違うように感じますか?
さして変わらない、似たような写真ですか?
見比べるのではなく、身体で感じようとしたらどうですか?
違いをあえて表現しようとしたら、どんな言葉が出てきますか?

つい先ほど、以下のような手順で撮りました。
 
 
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①スマホで花の写真を撮ろうと構えてみる
②構図を決めて、1枚写真を撮る
③撮ったときの手の形をキープして目を閉じる
(以降最後まで目は開けない)

④集注し、暗闇の世界で、花の存在を捉える
→「あの辺りに花があるなあ」ぐらいに
⑤同じく自分の存在を捉える
→「ここに自分の身体があるなあ」
⑥花の存在感と、自分の存在感をそろえる
→感じる強さの強弱、感覚する色、大きさ、かたち、質感など
→そのどれか一つを取っかかりにして、そろえてみようと試みる

⑦スマホが、花と自分の間にあるのを感覚する
→「ここにスマホがあるなあ」
⑧スマホが今ある位置(空間座標的な)に集注したまま、スマホを横にスライドしていく
⑨何となく止まりたくなる位置で手を止める

⑩いま止まった位置に集注したまま、最初の位置へスマホを戻していく
⑪元の位置へ戻ったと感じた瞬間にシャッターを切る
⑫目を開けて、撮れた2枚の写真を見る。印象の違いを感じてみる
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もう一度写真を見比べて、左右どちらの写真が1回目、2回目だと思いますか?
答えはもう少しあとにして、この出来事を、違うシーンに置き換えてみます。

例えば「息子の旅立ちと帰省」だとして、捉え直してみましょう。

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仮に「花の存在観」が母親。「自分の存在感」が父親。「スマホを持つ手」が息子だとします。

1回目の写真は、旅立ち前の息子が見た母親の姿かもしれません。または父親視点と言えるかもしれません。

息子を送り出す前に、父と母の気持ちをそろえておきます。息子に対する想い、本心は個々にうず巻いているものがあるかもしれませんが、一度二人で意見をそろえた上で、「行ってこい」と背中を叩きます。

息子は故郷を想いながら出発します。自分の道を歩み始めた息子は、やがてふと、「故郷へ帰ろうかな」と思い、足を止めて振り返ります。新天地にて、なじんだつながりも背中で感じながら、再び故郷へと向かって出発します。

そして故郷へ戻り、実家のドアを開けた瞬間、家も、両親も、以前とは違って見えます。仮に2回目に撮られた写真が、「旅立った息子が帰ってきた瞬間の家族の空気感」みたいな感じとしたら、左右どちらの写真が、そのタイトルにふさわしいと感じますか?

   ◆

旅立つ前は、家族三人、個々にいろんな想いを抱えながら、新たな道へ進もうとしています。三人の表情にも、それぞれ別々の想いが表れていたかもしれません。

しかし息子が帰ってきたときの三人の表情は、照れくささと、懐かしさと、安心感が入り混じったような、「家族みんなが同じ顔」。誰が誰を見てもお互いに、「みんなの表情」と言えるような、そんな気がしませんか?

ここで一度、その感覚経験を除外してみます。起きた客観的な事実だけを説明すると、次のように言えます。

三人家族があった。一人が出ていった。二人家族になった。また一人が戻ってきた。元の三人家族になった。算数で言えば、「3-1=2」「2+1=3」で元に戻っただけです。

けれど私たちが感覚できる内なる世界では、何かが大きく動いて変化しています。最初の3と、最後の3では、全く別物の3になっています。

   ◆

私たち晴風学舎ではこの出来事を、「観が動いた」と表現します。「観」とは、「どのように物事を捉えているのか?」という態度のことです。息子が旅立ったことで、両親、子どもそれぞれの内的世界で、何となく「家族とはこういうもの」とそれまで無意識に捉えていたものが動かされていきます。

「失って初めて気づく」とよく言われますが、人生に何らかの展開があったときに、それまで無自覚だった感覚に初めて気がつくことがあります。その感覚を拾うことができた後に、状況としてはまた元の状態に戻った(失ったものを取り戻した)としても、そこには新しい「観」が立ち上がっており、以前と同じ感覚には戻りません。目には見えない何かが、前に進んでいるからです。

私たちは稽古を通じて、新しい「身体観」を開拓していこうと試みていきます。「身体観」とは、「どのようにこの身体を捉えているのか?」という態度のことです。

私たちの身体を、単なる健康か病気かという2択でみようとするのではなく、また筋肉量や心肺機能の優劣を表すものでもなくて、シワやシミや、お肌のハリという見た目の美しさや若さを示すというものでもなくて、別の観点で捉え直してみます。「晴風の探究」を基礎にして、新しい身体観に出会おうと試みていきます。「晴風」とは何か? それはこの後お話しします。

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「息子が帰ってきた日のあの空気」のような、実際体験したことがなくても何かわかる気がするような―、どこかでみんなが通じ合える共有感覚が身体に表れているのに、普段は存在しないかのように無視されている、ほんの小さな身体感覚。

私たちはそのわずかな感覚を足掛かりにして、健康も病気も、筋肉運動も心肺機能も、シワやシミも、そこにどんな感覚が生じてきているのか、まるでモンシロチョウの羽ばたきに耳を澄ませるように、身体のかすかな声に耳を傾ける稽古をしていきます。その中で、感覚を生み出す根源を捉えたときに、やがて大きな竜巻を引き起こしていける力が生じてくる場面に立ち会います。

そこで何が出てくるのか、意味も目的も忘れて、感覚経験に引き込まれていくとき、「観」が動き、まるで世界がガラッと変わったように思えます。一体何が起きているのか、うまく説明できないけれど、あの時何かが変わったことは確かだと、そういう体験は、誰しもがあるのではないでしょうか。

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「観」が動くとき、身体の中に確かに存在していた生命的な溌剌さが、実感として立ち上がってきます。野口晴哉(1911-1976)という人は、次のような言葉を残しています。
 
 
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まず自分から動くことだ。自分から出発することだ。

しかしその意欲も、背骨が弱いと生じない。
脊髄へ息を通すと自発的に動きだし、世界は為に一新する。

この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも、楽々悠々息しつづけよう。

そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹き過ぎる。

雪は白く、空は蒼い。
黒い雲の向こうはいつも蒼い。

世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。
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(野口晴哉著『風声明語』全生社より)
 
 
「野口晴哉先生」と私は呼びますが、先生には、どのように世界が見えていたのでしょうか。どのように人間を、身体を、捉えていたのでしょうか。

「背骨が弱い」とは?
「脊髄に息を通す」とは?

先生が遺した思想というか、心というか、生き様というか、何とも言葉にしがたい何かを、私たちは「晴風」と呼ぶことにして、「一般社団法人 晴風学舎」として、晴風を探究していく活動を行なっています。

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私たちは何かに「感動」したとき、ガラッと世界が変わったように思えます。そのとき身体では、胸が熱くなる人もいれば、胸が張り裂けそうになる人もいる。ほっぺたが落ちそうになる人もいれば、お腹が満たされる人もいるし、涙腺がゆるむ人もいる。背骨に息が通るという人もいるかもしれません。

構造上の肉体としての「体」とは別に、身体の中で動いているものを、私たちは「身」と呼びます。子どもが生まれたとき、肉親と別れたとき、試験に合格したとき、大谷選手がホームランを打ったとき、私たちの中でどんな動きが起こり、それが私たちにどんな生きる力を与えてくれるのか、「身」に集注することで感じられる世界を、共に開拓していこうとするのが、私たちの活動です。

花園稽古場では、畳の上に集まって体験した出来事が、例えばおうちに帰ってから台所でも、学校でも、車でも電車の中でも、会社でも研究室でも、病院でも介護施設でも、山でも海でも畑でも、個々の活動に向かう際に、新たな身体観から独自の切り口を開拓していけるような稽古を行なっていきます。

   ◆

最後に、冒頭のお花の写真ですが、左が「旅立ち前」、右が「帰省後に玄関を開けた瞬間」です。けれど、ここまで来たら正解だったかどうかはもはや、どちらでもよくて―。
写真を見て、文章を読んで、野口晴哉氏の言葉に触れて、過去の記憶がふっと思い出されて…、この瞬間、いま私たちの身体の中に、何かが動いているような、生じてくるような何らかの感覚があるなら―、それがたとえ、ほんのかすかな風のゆらぎのようなものであっても、目を閉じて、その「動き」にしばし集注してみます。

胸が膨らむような感覚、お腹が傾いていくような感覚、腰がねじれてくるような感覚、お尻が浮いてくるような感覚…。

それを言葉にすると、もしかしたらほかの誰かに、「そんなの無いよ」と言われるかもしれないし、友人に「妄想だよ」と、家族に「だまされてるよ」と、エラい先生に「それ間違ってるよ」と、または内なる自分に「ただのカン違いだよ」と諭されるかもしれないけれど、それでも「今、自分は確かにこう感じている」と言える絶対的な感覚をキャッチしてみるところから、ともかく始めてみます。これが私たちの稽古です。

次にその感覚に集注して、味わい、待っていると、その一つ先が出てきます。一体何が現れてくるのでしょうか?

そこから、ともに稽古を始めてまいりましょう。

一般社団法人 晴風学舎 技術研究員 山中一弘


※私はお花も写真も素人ですが、自分の稽古として、明日から引き続き写真をアップしていきます。道場の空気の変化を、ともにお伝えできたらと思います。