初回が花園稽古場、28日(日)に等持院稽古場で二回目の稽古会を終えたところです。
受講生の皆さんには毎回、「稽古日誌」を通して振り返りを行なっていただいています。
さっそく、初回の花園稽古会の振り返り日誌が集まりました。
この場で随時、皆さんの中から出てきた言葉を拾ってご紹介していきたいと思います。
初回の振り返りの前にまずは、「晴風回り稽古」に臨むにあたって、いくつかのご質問に答えていただきました。
②今回の『回り稽古』は、普段の稽古会と何が違うと想像しますか?
「前と後の稽古の場がつながったりしていくのが違うのかなと思います」
「同じメンバーが色々な稽古場で出会う事でいつもと違う経験が出来ると思っています」
「順哉先生以外はじめてお目にかかる先生方ばかりです」
「初めてお会いする先生方に続けて短い期間にお会いすることで何かしら共通する物、又は相違点などを見、この組織全体を見通せるかも?」
「同じメンバーで5人の先生を周るので、自分の感覚だけでなくメンバーの感覚も分かってくると思う」
「既存のできあがった稽古場でいつものメンバーで行なわれる稽古と、つくりあげていく稽古の違い」
③現段階で、「晴風学舎とは、どんなことをしているところ」だという印象をお持ちですか?
「物理ではない身体の感覚を共有したり稽古したりしている所」
「身体感覚のおけいこ。精神と身体の集注の違い」
「躰に集注するお稽古場という印象」
「古来から身体に受けつがれている記憶(文化)を呼び起こしながら(稽古)、身体集注によって身体を呼び起こす」
「身体の理の追究」
「『気』を動かす」
「頭で何かをしようとしがちなのでそこをどう解決するかがテーマ」
「実生活に稽古をどう活用したら良いのかよくわからない事」
「動法に基づいた体さばき」
「集注に入いる、待っているのでなくがんばって集注しようとしている自分をなんとか変えたい」
「深い集注に入りながらも先生の伝えられる手順がちゃんと記憶して再現できるようにしたい」
「笛を吹く際に他人の目や耳を気にすることなくいかに自分の躰に集注するかが課題です」
受講生のみなさんから提出いただいた個々の日誌を読ませていただきながら、「あぁ、こんなことを考えて稽古に臨まれていたのか」と、私自身が多くの気づきを得られる機会を与えていただきました。
回り稽古全五回を終了した後の最後のページで、今回の質問と酷似した問いかけがあります。
今回の記事の一番最後にご紹介しますが、『今回参加を決めたのはなぜだと思いますか?』という質問―。その答えが、各稽古場を巡っていくうちに自然と変わっていく、心の奥底にあったものに気づく、出会う、ということがあればいいなと思っています。
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日常の些細なシーンでもありますよね。何となく外食で選んだメニューが、「何となく」で決めたつもりだったけれど、食べているうちに、過去のいつかの思い出と繋がって、「ああそうそう、そういえばこれは学生の頃に…」と、かくれていた本当の理由があとから出てくる、みたいな。
「そうか、この気持ちを味わいたかったからきっと私は、今日、これを食べようと決めたんだなぁ」と。
集注が一つ、身体の深いところまで届いた結果として出てきたものではないかと、私は考えています。
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これから稽古を続けていく中で出てくるものは、そんなキレイなものばかりじゃないかもしれない。
見たくなかった自分の情けなさだったり、信頼していた先生の残念な面だったり、稽古仲間の弱さだったり、忘れていた過去の様々な記憶だったり―。
稽古の目的を、「特定の技術の修得」ではなく、「『道』を求めて往くこと」として捉えるなら、良い経験も悪い経験も、良い人も悪い人もなく、すべて道中の、必然の出会い、必然の出来事になるのかもしれません。
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ここにして 家もやいずこ 白雲の たなびく山を 超えてきにけり
私は最近、万葉集の中から、この歌に目をとめた。この歌を、いつ、何処で、誰が詠んだか、そんなことはどうでもいい。私は私なりの空想を、今、ひとりで楽しんでいる。
この歌の「超えてきにけり」という感懐は、最初の「ここにして」で生きていると思う。しかし、この人の「ここ」は、この人だけの「ここ」であって、他からは窺い知れない。だから惹かれるのかもしれない。
考えると、人は誰もその人だけの「ここ」がある。というより、その人だけの「ここ」を感じる力をもっていて、いつも「ここ」を求めて暮らしているような気がする。だから、居心地がよいとか悪いとか、処を得るとか得ないとか、適材適所とかいう言葉があるのだろう。
何故、人はそれぞれ、その人だけの「ここ」を求めてやまないのだろうか。
それは誰も、その人だけの「ここ」を見つけたときが、一番その人の生の輝きや、安らぎや、また能力の発揚に、直接つながっているからであろう。
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野口昭子 著「ここ」『見えない糸』(全生社)より
それぞれが「裡(うち)」に求めている「ここ」。
そこにいつか向かうために、個々が稽古に参加しているとして―。道中の「道案内役」、それが、私の役割ではないかとふと、思いました。
それは今回の晴風回り稽古の企画者、案内人としてだけではなく、普段の、晴風学舎・技術研究員としてもそうです。
同時にまた私も、旅人です。「ここ」を求めて、彷徨える道中の真っ只中です。
受講生のみなさんや、花園稽古場を訪れるみなさまに道案内していただきながら、お互いに古地図を広げて、正しいのか判らないコンパスの針を頼りに、道を捜し求めている。
それが実際、稽古し続けていくということなんだろうなと、改めて思いました。
「いろんな先生の感覚が知りたい 先生が変わると皆がどうかわるか、と思った テンポ感が変わると 人はどう変わるか知りたい」
「昨年の十月から順哉先生の講座を五~六回受講しただけの初心者なので当初はためらったのですが、山中先生のブログで晴哉先生の明語『裡の要求によりて為せ』を拝読し、『はい、わかりました』と参加を決めました。」
「山中さんが回り稽古をはじめられるということで、お声がけいただき日曜の日程が空いていたので参加しようと思いました。まずは行動しないと経験ができないので、経験したいと思いました」
「山中さんのブログを見ておもしろそうだったので参加を決めました」
「晴風学舎って? 足の痛い私で大丈夫? という思いを持っている私自身への答えを捜して参加しました」
「いろいろな稽古場の集注のありかたをはだで感じたいから 同一のメンバーで回を重ねる毎に集注のあり方がどう変わっていくのか? 行ったことのない稽古場、稽古に参加してみたい」
































































