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2026年7月30日木曜日
【事実だけれど真実ではない―、たとえ本心だとしても言葉にすべきでない―】30日(木)
今日はここ、待賢門院(たいけんもんいん)が晩年を過ごした東新御所跡地(私の自宅)にて、西行法師の歌を詠むところから。
西行法師『千載和歌集』『百人一首(86番)』より
「嘆きなさい」と、月が私を、物思いにふけさせようとしているのだろうか。眩しい月が瞳に映るせいで― ということにしてしまいたくなるほどに、どうしようもなく、涙が滲んでしまうよ。
西行こと佐藤義清(さとう のりきよ)は、18歳で北面武士(御所を警護する親衛隊)となりましたが、23歳で突如出家しました。
その動機が何だったのか、諸説あるようですが、待賢門院への叶わぬ恋を断ち切るためだったと、一説では言われています。
当時の北面武士は鳥羽上皇に仕えており、その妃が待賢門院でした。北面武士には、西行と同い年の平清盛も所属しており、のちに武家中心の世の中をつくっていくこととなるエリート集団でした。
そんな出世街道を、若き西行は自ら降りてしまったのです。
いえ、当時を生きていたとしても、彼の本当の心など、分かるはずがありません。
「実はこういうことがあってさー」
と、彼がざっくばらんに話してくれたとしても、実際のところなんか、分かりませんよね。
私がある介護施設に勤務していた頃のことです。
利用者様同士の人間関係がこじれて、数週間に渡るケンカ状態が続いていました。(先日も似たようなことを書いた気がしますが・・・)
その関係修復を試みようとした職員が、お一人ずつ面談をして聞き取りをしたのですが、聞き取りの場面では、
「もう無理。相手がどんなに謝ろうと許したくない」
「今後一切、関わりたくない」
と、そのような発言があったとの報告が、職員内で共有されました。
けれど私は、本心じゃないだろうなと、どこかで感じていました。当事者の方とそれぞれ接している中で、お二人とも、何か「きっかけ」を求めているのではないかなと感じていました。
それは事実だけれど、真実ではないのではないか、とそう感じていました。
私たちが自分自身に置き換えてもそうですよね。実際に本心を口にできることの方が少ないですし、増してトラブルの渦中において、「本当のこと」なんて滅多なことで言えるものじゃない、というか、自分でも「本当はどうしたいのか?」が分からなくなっていることも多いかもしれません。
①何にも事情を知らないバカなフリを装って、Aさんと何気ない会話で盛り上がりながらラウンジへ歩いていく。
②二人で歩きながら、すでに着席しているBさんのもとへ近づく。
③Bさんの席のところへ来て、Aさんとの会話中でBさんへ話を振る。
「Bさん、昨日の雷すごかったですよねー」
「あのあとすんごい夕焼けで…見ました?Aさん」
「道路とか松の枝が散乱していてすごかったですよ」
「あの時どうしてました?」
と、三人の会話へ自然に移行していく。
④会話を盛り上げながらAさんにジェスチャーで着席を促し、自分もしゃがんで低い目線で会話する。
⑤Aさんは目線の高低のズレから立って話しづらくなって、自然な流れでBさんの向かいに座る。
最初はAさんもBさんも戸惑うけれど、バカっぽい私の質問にただただ答えていく内に、機嫌悪く振舞う方が不自然で難しくなり、「なんかそういうものかな」と場の雰囲気に呑まれやがて、表向きは「仲良い風」の会話になってきます。
けど、本心はわかりません。
それ以来、お二人は普通に会話するようになられました。けど、本心はわかりません。
相変わらずイヤイヤなのかもしれないし、何か問題解決してホッと肩の力が抜けたかもしれません。
冒頭の歌に込められた思いも、真実はわかりません。いろんな方の現代語訳や解説を読みましたが、多くは「恋煩いの涙」だと訳していました。
「嘆きなさい」と、月が私を、物思いにふけさせようとしているのだろうか。眩しい月が瞳に映るせいで― ということにしてしまいたくなるほどに、どうしようもなく、涙が滲んでしまうよ。
こちらは私なりの現代語訳です。実際「恋煩いの涙」なんでしょう。けれど、「本編で濁していることは、濁したままにしておいてほしい」というのが、本人の心ではないかなと、私は思いました。
解釈は読み手の自由ですが、「恋のつらい悩みのせいで」というフレーズが入った現代語訳をいくつか見かけた際、これは西行さんでも、璋子さん(待賢門院)でも、イヤじゃないかなと感じました。
「恋の悩み」が本心だったとしても、何だか言葉には出したくない、それならば、何を言葉にするのか。
原文そのまま、その音を楽しむ。それが一番なのでしょうけれど、私はもっと、当人に近づいてみたい―
昨日、7月29日が満月でしたね。実際に月を眺めてみて、どんな気持ちか―。月が眩しい―、何か訴えかけてくるように思える―、まるで月が自分のように感じる―
そんな風に、1000年前に思いを馳せて、今夜の月を眺めてみれば、まるでこの歌も、自分のことのように思える。西行さんも、いつかの自分だったように感じられる。
だとしたら―、それを歌を詠むことで共に感じることができたなら―、事実も真実も、何が動機でどんな思いで出家してこの歌を詠んだのか、その「正解」は、きっと何でもいいのだなと、そう思えました。
ただ、そこに気持ちをどれだけ寄せられるかという、自分自身の体験の深さがあるだけで―
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