2026年6月1日月曜日

【過去をこっそり書き換えていく】1日(月)


このブログをこまめにチェックされている方はお気づきかもしれませんが、一度投稿した記事に、あとからちょこちょこ加筆をしています。


撮った写真だけ先にアップしておいて、文章をあとで書き足す、ということをやっています。深い意味はありませんが、ただそうしたいからやっているんだと思っています。

けれど、【なんで、ここに来ちゃったのか?】(5月13日の投稿)でも書いたように、本当は何かあるのかもしれません。深層心理なのか、裡(うち)なる要求なのか、前世のカルマなのか、わかりませんが、何かがあるのかもしれませんね。
 
今日は、ただの写真集だった5月30日の投稿に、【ちょっと何言ってるか分からない『身の学』とは?】という文章を書き入れました。

   ◆

この3月までは「整体協会」の内部組織、「身体教育研究所」だったものが、「一般社団法人晴風学舎」になりました。私もその一員として活動を始めましたが、そもそも「晴風とは何か?」を、誰も自信を持って語ることができません。

それは一般社会で言えば、「人生とは何か?」と問われているようなもので、例えばある時「これこそ人生だ!」と思える瞬間が訪れたとしても、きっと十年後には、別の言葉、別の答えが出てきますよね。

私たちにとっての「晴風」も、それに似ています。ただ、自信を持って語れないからと言って、語ることから逃げるわけにはいきません。

「晴風」とは何か? 
「晴風学舎」とは何をする団体なのか?

説明しようとすれば―、語ろうとすれば―、「それは違うよ」「間違ってるよ」「そんな浅いものじゃないよ」と言われる場に、身をさらすことになります。

黙っていれば、「わかっている風」を装うことができます。

きっとどちらを選択しても、それぞれ稽古にはなるだろうと思います。

「黙する稽古」と「言葉にする稽古」――。

(↑雨予報の前日は、絶好の飛行機雲日和です)


ふと、4月25日の投稿で触れたドキュメンタリー映画『美味しいごはん ~挑~』のワンシーンを思い出しました。

主人公の「ちこ店長」が、どこかの料理店に勉強に出掛けた際、同じ場に同じく学びに来られていた別の料理人の方のコメントです。

ちこさんが凄いのは、疑問に思ったことをためらいなく質問できること。質問するって、無知を晒すリスクがあるから、みんなちょっと考えて、賢そうに思われる質問をしちゃうと思うんです。

立場がある人なら、なおさらそうで――。『こいつ何もわかってないな』って思われたくないから、パッと言葉に出せなくて、結果として学びの機会を逃してしまうことが多いんじゃないかと思います。私はそういうところがあるので。

でもちこさんは、そんなちっぽけなプライドよりも常に、『知りたい』が勝つんだと思うんですよね。だからどんどん学んで身に着けて、成長していける

と、確かこんなようなお話でした。
 

と、ここまで書いてきてふと我に返ってみると、私が晴風学舎の「身の学」について言葉にしてみようと思ったことの焦点(過去のきっかけ)の一つは、4月に観たこの映画だったのかもしれないなと思いました。

自分のノートに考えをまとめるのも稽古になるかもしれませんが、やはり「場の力」というものがあります。

稽古会でも、「自宅での一人稽古」と、「道場での二人稽古」では、集注の深さが全く異なってきます。

文章も同じで、自分のノートに考えをまとめることと、誰か一人でも目にする可能性がある場所に書くのでは、思考の深さが異なってきます。

ただしそこには、無知をさらすリスクもある。見栄やプライドで取り繕い、本音が出せなくなる傾向も表れる。そんな見栄もプライドも見透かされて丸裸になってしまうリスクもある。余計なことを語り過ぎて破門になるリスクもある――。

けれど反対に、その程度のリスクしかないとも言えます。

人生全体を捉えたときに、自分が到達したい理想はどこにあるのか?
人生全体を掛けて、何を探究していきたいのか?

人生という長い時間軸から捉えれば――、宇宙というもっと大きな空間規模から自分の存在を眺めたら――、「本当のリスク」とは、どっちなのか? その意味が反転してくるような気がします。

「無知の知」という、ソクラテスの有名な言葉があります。自分が何も知らないことを自覚することが、本当の「知」への第一歩であり、成長へ確かな道筋となるはず。

前述の「ちこ店長」の態度がそれを体現した姿ですね。

  
今日の記事を何となく書き進めてきたことによって、意図せずここでもう一度、あの映画と出会い直せたような気がします。私のブログの過去記事もこっそり書き換わっていますが、リアルな私の過去の記憶も、新たな角度からなぞられて、一緒に成長しました。


最後に――、ちょっと良いこと書いたような気になっている私に向けて、レンガの角で殴り倒すような、野口晴哉先生の言葉をお見舞いして、まとめとします。
 
 
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『嫌いなこと十題』

無知、厚化粧、当てつけ、見せつけ、むき出し、色眼鏡、間延び、押しつけ、借り着、ざあます。

嫌いなことの筆頭は無知。無知の中でも、正直を振り廻されるのにはたまらない。

   ◇

当てつけ、見せつけを好く人はいまいが、見せつけの中でも弱さを見せつけられることは一番嫌だ。弱さを権利のつもりで振り廻し、同情の義務を強いんとするのは日本人の悪い癖だ。

   ◇

色眼鏡からのぞいた正論らしきものを、とうとうとまくしたてられることほど始末の悪いことはない。しかも、その論拠が借り着の場合などは、「そのご意見は先月の『音楽の友』に出ておりましたな」とむき出しに言うより予防法はなさそうだ。

   ◇

人は押しつけをやりたがる。その中でも親切の押しつけほど、厭味(いやみ)なものはない。正直な人が、一生懸命親切を押しつけるときほど困ることはない。無知の代表的行為だ。
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野口晴哉 著『偶感集』(全生社)より
 

あぁ、正直を振り廻しているよなぁ――。
弱さを見せつけているよなぁ――。
正論らしきものを、誰かの言葉を借りてとうとうとまくしたてているよなぁ――。
一生懸命に、親切を押しつけているよなぁ――。
 
 
と、絶望を味わって―、今夜の寝床に入ろうと思います。
稽古の日々ですね。
 
 
 

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