「回り稽古」とは、平成27年(2015年)9月より、「晴風学舎」の前身である公益社団法人整体協会の内部組織「身体教育研究所」にて開催されていた登録稽古会の形式です。
当時は1クールが全6回、隔週で3ヶ月に渡って開催されていました。参加者16名が、国立(くにたち)、大井町、狛江、武蔵小金井…と稽古の場を移しながら、「全体テーマ」を深めていきました。
第一回のテーマは「坐法・臥法(ざほう・がほう)」。いわゆる、座り方と寝方でした。
「坐法(ざほう)」では、立っている状態から、いかにしてきちんと正座し、お辞儀まで持っていけるか、その手順と身体の扱い方を稽古していきました。
「臥法(がほう)」は、きちんと座っている状態から、いかに「きちんとうつ伏せになる」ところまで持っていけるか、「きちんと仰向けになる」ところまで持っていけるか、同じくその手順と、身体の扱い方を稽古していきました。
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私は、東京で開催された第一回、第四回の受講生でした。
当時の私のことをお話しすると、第一回の回り稽古が終了した直後に資格試験がありました。無事に合格したのち、平成28年4月より新宿にて、自身の稽古会を開き始めたという経緯があります。
そんな私にとって回り稽古とは、とてもたくさんの意味で原点とも言える、この十年間を振り返っても一番思い入れの深い稽古会です。
今日は、十年前の回り稽古で教わった「市場に身体を出す」というお話をしたいと思います。
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稽古を始める前と、終える際に、必ずお互いに礼をします。私はそれまで礼の意味を、「相手の生命に対して礼をするのですよ」と教わってきました。しかし回り稽古では、相手の生命だけではない、礼にはもっといろんな意味があるのだと教わりました。
一つは、自分の身体に対する礼。「今から稽古を始めるぞ」と、自分の身体に伝えて集注に入ること、そして「これで稽古を終わるぞ」と、身体をまとめるために礼をします。
もう一つは、場に対する礼。晴風学舎では、撞木(しゅもく)のかたちで礼をします。撞木というのは、お寺の鐘を叩く丁字型の木槌のことですが、木槌の持ち手と叩く部分の関係のように、L字ソファに座るような向きで礼をします。
撞木で座ると、正面には相手がいません。お互いにL字に向くと二人の前には、何もない畳の空間が生まれます。その「場」に向かって礼をする。
「場」とは、何なのでしょうか?
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十年前の回り稽古にて、目黒のK先生が次のような話をしてくださいました。
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市場っていうのは、二つの世界の境界線に出すんです。
例えば峠―。峠って言うのは、山で隔てられた二つの集落の境界線です。こっちの村と、あっちの村の境目。
もっとわかりやすいのは港ですね。海と陸の境界線。そこでは、モノが人の所有から離れて、誰のものでもないただのモノになる。
海の民のものだった魚とか海藻とか貝なんかが、市場に出されると所有から離れる。
山や里の民のものだった野菜やお米、お肉なんかが、所有から離れて市場に陳列される。
我々がやっていることもどこか似ていて、各々の「身体」を一旦所有から引きはがす。「これは私の身体」と思っている内は、何も変わっていかないし、場も動いていかない。
だからお互いの身体を市場に出すような感覚で、撞木に座り、目の前の場に礼をする時に、目の前の「場」に、お互いの身体を陳列させる気持ちで礼をする。
それが、場に対する礼ということです。
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と、ここまではK先生は語られなかった気がしますが、国立のS先生と狛江のN先生から教わったことを統合して、私はこのように受け取りました。
海でもない、里でもない、この「境界線感覚」というものを、私たちはとても大切にしています。「永遠のテーマ」とも言い換えられるかもしれません。
私が日々行っている撮影動法稽古の手順の中でも、以下の部分で使っているのは「境界線感覚」です。
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⑥花の存在感と、自分の存在感をそろえる
→感じる強さの強弱、感覚する色、大きさ、かたち、質感など
→そのどれか一つを取っかかりにして、そろえてみようと試みる
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ここでやっている3行のことを、「境界線」という視点から丁寧に解説していくと、次のようになります。
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(1)花に気持ちを100%集注してみる。
(2)花に集注するのをやめて、自分に気持ちを100%集注してみる。
(3)自分に集注するのをやめて、花に80%くらい集注してみる。
(4)花に集注するのをやめて、自分に80%くらい集注してみる。
(5)このように花と自分を往復しながら、振り子の揺れが小さくなるようにしていくと、「今はどっちに集注しているんだろう?」とわからなくなるところがやってきて「境界線感覚」に入る。
(6)そのとき「花」と「私」の存在感はそろっている。もしくは消えている。
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私はこの「境界線に入る稽古」を、日常のいろんな場面で試行しているのですが、様々な気づきがあって面白いです。たとえば「食事前のいただきます」や「包丁で野菜を切る」時、「切花の茎を切る」、「お参りする」、「眠りに入る」時など。
私が実践しているそれら境界線稽古の手順とそこから得られた結果など、またこの場や稽古会でもご報告したいと思います。
それではまた、次の稽古にて。

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