JR東海道本線 島本駅で降りて、のどかな道を、てくてく歩いてゆきます。
いつも通り、左の写真が「意志で撮影」。右が瞑目して「意志を外した写真」です。
京都の近所では見かけない草花に出会うたび、しゃがみこんでは愛でながら、少しずつ、町の奥へと入り込んでいきます。
↑左の写真はどこか、「強がっている涙」。右の写真では、「ほっとしてこぼれた涙」。そんな印象を私は受けます。
「子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて 昔をしのふ さくらゐのさと」(明治天皇)
楠木正成(くすのき まさしげ)と楠木正行(くすのき まさつら)父子の決別の地。さきほど公園の前で惹かれた花びらの雫が、この歌にて帰結したようにも感じられました。
「道のべに どくだみの花 かすかにて 咲きあることを われは忘れず」(斎藤茂吉)
(道端に咲くドクダミの花のように、どんなに目立たず、かすかな存在であっても、この大地で確かに咲いているその命のことを、私は決して忘れない)
「いわなければ いけないことを 言うときの どくだみの花 くらやみに浮く」(千種創一 ちぐさ そういち)
『千夜曳獏(せんやえいばく)』より
「どくだみの 花のにほひを 思ふとき 青みて迫る 君がまなざし」(北原白秋)
同じ「ドクダミの花」でも、捉える人の感受性によって多様な歌が生まれます。
ある人は、ひたむきに生きる存在のたおやかさを―。
ある人は、口をひらく時の緊張感を―。
ある人は、激しい情念を―。
またある人は――……。 ↑左の写真(意志)では、珍しい花との遭遇に興奮していたのか、画面いっぱいギチギチに根元から花までを収めていますね。
一方で右の(意志を外した)写真では少しゆとりが生まれて、「通りがあってこそ、映えるホタルブクロのランプだよ」と言われているような気がしました。まるで通りを照らす街灯のようですね。
自分一人で花を生けていると、「俺の美学ってこうだから!」という主張が、どんなに隠そうとしても顔を出してしまうものです。私の道場に生けている花などがそうなっていますね。
本日の稽古では、花を二人交互に生けていくことで、個々の意志や固定観念、プライドや美学が溶けて流れて、消えていくようでした。
結果として、「これ、誰が生けたの?」と思えるような、自分たちの知らない「私たち」が自然と表れてきます。
1個のサイコロでも、上から見たら「1」、下から見たら「6」です。前から見たら「2」で、後ろから見たら「5」。左から見たら「3」で右から見たら「4」。
1個のサイコロでも、上から見たら「1」、下から見たら「6」です。前から見たら「2」で、後ろから見たら「5」。左から見たら「3」で右から見たら「4」。
同じ花でも、見る角度によって、様々な見え方、美しさ、面白さに自然と気づかされていきます。
「ドクダミの花」と一緒ですね。
◆
プロ野球監督辞任のニュースが流れてきました。ただ――、関係者のお一人おひとりについて、私たちが知れるのは――、サイコロのほんの一面でしかないですよね。
その事件の真相も、テレビや週刊誌、SNS等でどれだけ情報を集めてわかった気になったとしても、多面体である真実の、ほんの数面しか垣間見ることはできないはずです。
そのことを自覚し、目の前に映っている一面だけに振り回されないように――、自分が決して見ることのできない無自覚な世界の存在を感じ、向こう側に思いを馳せられるよう在りたいと思います。
それは大きな事件だけでなく、毎日当たり前のように顔を合わせる人や、足元の小さな花、口にしようとするお米の一粒に対しても――。
稽古をする目的の、一つですね。
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感ずる者の心には、感じない者の見る死んだ石でも、お月さまとして映る。
太陽も花も自分も、一つの息に生きている。
道端の石も匂い、鳥も唱っている。
感ずることによって在る世界は、いつも活き活き生きている。
見えないものも見える。動けないものも動いている。
そしてみんな元気だ。空には音楽が満ちている。
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「私は、『私が未だ知らない”佳い”という感覚』を、いつも追い求め続けているんです。きっと私は、その為だけに、稽古を続けているんですよ」
本日も、Y先生との稽古の中で、新たなる「佳い」にたくさん出逢うことができました。
どうもありがとうございます。
「見わたせば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ」(後鳥羽院)
『新古今和歌集』より
























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