2026年5月26日火曜日

【撮影をいかにして稽古化できるか?(二人撮影動法稽古)】26日(火)


写真家のIさんが訪ねてきてくださいました。

さっそく一緒に、撮影動法稽古です。
↑こちらがIさんの撮られた写真。花瓶を設置するところからお願いしました。

左の写真が、Iさんが「撮りたい」という構図を整えて意志で撮られた写真。右の写真が、動法の手順に従って瞑目し、一旦スマホをズラして戻しながら撮られたものです。

2つを比べて、どのような印象の違いを感じますか?
 
   ◆
 
私たちもその場で、2枚の写真を比べて感想を話しました。

左の1枚目は、被写体の輪郭がクッキリ浮かび上がって感じられます。背景に対して、Yの字型のシルエットが浮かび上がっているような感じです。写真を眺める私の視線は固定的になります。

対して右の2枚目―。視線が自然といざなわれていくのは、花瓶の口です。穴から花瓶の中に吸い込まれていくような感覚が出てきます。

花を見ている時の視線は通常、茎から花へ向かって、中央から外へ向かって、クラッカーが弾けるように拡がっていくことが多いと思います。ところがこの2枚目の写真は、花から茎へ、外から内へ、引き込まれていくような動きを感じます。

何なのでしょうか? これは―。
 
   ◆

続きまして、私の番です。Iさんがセッティングされた花瓶の前で、私がスマホを構えます。そしていつもの手順で2枚撮影。 
私の写真2枚は、いつも通りな感じですが、Iさんの写真と比較してみるとまた、興味深い発見が次々出てきます。

   ◆

まずは、1枚目同士を比較してみます。
右の私の写真では、花瓶の右側に垂れているシャクヤクの葉が、ヘタっていて元気がないように見えます。一方でIさんの写真を見ると、同じ葉っぱが、まるで女子高生の逆さピース(ギャルピ)のように、元気よく外へ張り出しているように感じられます。

これがいわゆる、「プロと素人の差」なのでしょうか―。

2枚の共通点としては、視線がやはり固定的になるところ。撮影技術のレベルに差があっても、意志で取ると「時間が止まっている感じ」になる、という部分では、今まで私が撮ってきた写真とも通ずるものがあるのが面白いです。

   ◆

今度は2枚目同士を比較してみます。
並べてみると、いろんな発見が次々と出てきました。1枚目同士の比較だと、無意識に作品としての優劣で見てしまっている自分がありました。こちらの2枚を比べていると、ただただ何度も往復して見比べてしまう面白さが生じてきます。

まずIさんの写真を見て―「え?」
次に私の写真を見て―「えぇ?」
またIさんのに戻って―「お?」
また私のに戻って―「おろ? 何だろう、これ?」

と、気づけば無限ループしていました。往復するたびに、新しいところに視線がいざなわれ、その都度新しい発見が生まれてー。同じ被写体とは思えない、不思議な感じです。

何なんでしょうか? これは―。
 
Iさんと話していて思い出したのですが、そもそもこの撮影動法稽古の原点は、昨年の十月、Iさんとの会話でした。

京都の稽古会に参加した帰り道、一緒に東京へ向かう新幹線の車内にて―。「整体の稽古を、いかにして写真撮影に活かすことができるか?」という談義を、新横浜に着くまでの約2時間、延々と交わしていたのでした。

Iさんは当時、『月刊全生』(全生社)のカバー写真を担当されており、任されるようになった経緯と、先生から与えられた課題について語ってくださいました。

   ◆

そのIさんが与えられた課題を、私も無意識に自分の課題として受け取り、どこかで追い求めてきたものが、「撮影動法稽古」として今、かたちになっていたのだなあと、過去の焦点が一つ、あぶり出されたような気がしました。
忘れていた過去と出会いなおす。そしてまた、前に進む。
そんな稽古の日々です。
 
Iさん、ありがとうございました。
 
 
  

0 件のコメント:

コメントを投稿