左右の写真を見比べるといつも思うことですが、左の写真を眺めているといかにも、「私が好みそうなレイアウトだなあ」と感じます。自分の思うカッコよさみたいなものが表現されている。「出ちゃってる」とも言える。
同じく左の写真の中で、ふと時計の針に目をやると、何だか止まっているように感じます。時間を止める魔法を掛けて、時が凍りついたみたいだなあと、私にはそんな印象が生まれてきます。
↑白鳥建二さんが撮った写真のコラージュTシャツ。拡大すると次のように書かれています。
一方で、右の写真。単に秒針がブレているのも要因かもしれませんが、何だか時間が、生きているような、流れているような、そんな感じがします。
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左の写真を隅々まで見ようとすると、目玉だけ動かして眺めることができます。ぐるっと文字盤を目線で一周できる感じです。
対して、右の写真。視線が自分の意志とは別なものに導かれて、動かされていくような気がします。その時、動いているのは目玉主体ではなくて、頭とか腰とか、骨格が動かされているような感覚が出てきます。
私たちがいま向き合っているのは、単なる機械であるスマホやパソコン。そのガラス越しに、時計とキャッチボールでもしているかのように、身体で応じているような、響き合っているような、そんな感じになってくる。
右の時計の文字盤を見てみます。「6、7、8」までは順に目で追えるけれど、8から9には行きにくいような感じがする。何か「8!」っていう感じに吸い込まれていくかのような―。
8から9に行くのを一旦あきらめて、「12、11、10、9」と降りてきても、やっぱり9から8には行きにくい気がします。あいだに長針があるのが何か関係していそうですが、その条件は左の写真でも同じハズ。なのにやっぱり、右の写真のほうが8と9の間で引っかかる気がする。
何なのでしょうか。これは―。
「写真撮影動法」の稽古を始めてから今日で18日目。こんな風に、どんどんワケが分からなくなっている今日この頃です。
新しい「?マーク」が内から生じてくるたびに、「何なんだろうなぁ。これは…」と、撮れてしまった写真を眺めながら、毎日のようにその「謎」に浸っています。
左はやっぱり、私っぽい構図。「これぞ私がカッコいいと感じるレイアウトだなあ」と思います。そこから右の写真に目を移すと、何だか足払いを喰らったような感じ。カッコつけて決めポーズしてたのに、「足元がお留守だよ」って達人にすっ転ばされる瞬間みたいな。
映っている書の印象だと、右の写真は、「緑」の右下のハネに視線が引き込まれます。私にとっては、時計の写真の「8」の存在感に似ているように感じます。左の写真だと、「紅」の字の「糸」一画目の終点でしょうか。
どちらも映っている書は同じハズなのに、やはり何か違います。
写真の比較ではなく、実物はどうかと思い、改めて直接書を見上げてみました。すると目が吸い込まれるのは、「柳」の「卩」の長いタテ線の払いです。それが「緑」の下まで貫いて紙の底辺まで降りているように感じました。
と、いうことは―、「写真は在りのままを映していない」ということになります。
何なんでしょうか? これは。
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最近は、撮るたびに謎が沸きだしてきて、ワケがわからない渦中にいました。沸騰したお鍋の中で踊る、細切れのお肉やコロコロしたお野菜のようです。
生まれては消える感覚と、生じてくる詩のようなことばの断片の中で―、このブログ上に、写真だけはアップし続けているものの、それを人に伝えられるような文章のまとまりには、どうにもなってゆかない、そんな感じでした。
やがて沸いたお湯がお鍋から噴きこぼれるかのように、ひとつの臨界点がやってきて、「ワケがわからないことを、ワケがわからないまま書いてみよう」と、それも稽古だと思えるようになり、こうして言葉をつづっています。
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臨界点が来たのは「言葉にする」という「ブログ書き稽古」だけでありません。「動法の手順に沿って写真を撮る」という「撮影動法の稽古」もまた、噴きこぼれるタイミングが数日前に訪れていました。
被写体と向き合いながら、「もう良い写真だろうが悪い写真だろうが―、面白い写真だろうがつまらない写真だろうが―、別に何でもいいや」という感じになってきました。
それは投げやりな気持ちではなくて、「撮ること自体」が愉しくて、「撮れた写真という結果」は何でもいい、に変わってきたのです。
「結果として撮れた写真」にはあまり興味はないが、写真を撮るのは愉しい。これで思い出したのが、数年前に観た映画『目の見えない白鳥さん、アートを見に行く』です。
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「全盲の美術鑑賞家」を自称する白鳥建二さんの日々を切り撮ったドキュメンタリーです。
映画の中で、朝の散歩シーンがありました。白杖を片手に持ち、反対の手にはカメラ。歩きながら、シャッターを切りたいタイミングでパシャパシャ撮っていく。
ちょうど上記の映画のリンク先でも、右手に白杖、左手にカメラを構えて歩く白鳥さんの姿が写っています。
映画の中で、インタビューに答えた白鳥さんのコメントがふっと思い出されました。
「俺はね、撮れた写真が良い写真かどうかなんて、興味ないの。もちろん、誰かが俺の写真をみて喜んでくれるのは結構なんだけど。
俺としてはね、撮った瞬間でもう終わってるから。撮ったところで完結しているの」
私の記憶から引っ張り出したので、ブレはあるかもしれませんが、このようなニュアンスのお話でした。
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私がいつも掲載している2枚の写真。左は「目を開けて撮った写真」で、右は「目を閉じて撮った」写真です。
右の写真を撮るときにいつも訪れる感覚は、「撮るのではなく撮らされる」ような感じです。その感覚が愉しいから―、そこに「不思議さ」や「面白さ」のピークがあるから―、撮れた写真もまあ、眺めたら面白いんだけど―、そこに気づきや発見、新たな視点があるのも確かなんだけど―、そんな意味目的を越えて―、あの、「撮らされる」時の一体感みたいなものの歓びには、やっぱりかなわないんです。
「一体感」っていうのは、例えば路肩の草花を撮るときの、「被写体」と、「自分の存在感」がマーブルのように混じりながら、そこに「スマホ」も、「通り過ぎる車」も、「歩道の人」も、「太陽の光」も、「鳥のさえずり」も、「吹きすぎる風」も、みんなが一緒に参加しているような、そんな一体感です。
だから、撮れた写真は、記念写真みたいなものですね。
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3日前に、市内上京区で知人主催の上映会がありました。どの自主上映会でも、規模の大小に関わらず、何か撮っちゃいますよね。集合写真。
昨日は、南丹市園部へ行ってきました。田植えを終えた土地にて、奉納の舞を踊る稽古仲間を観てきたのですが、やはりそこでまた、撮っちゃう。集合写真。
でも、集合写真を撮るためにそこへ行ったわけじゃないですよね。
記録として残すために撮る。いつか思い出を振り返るために撮る。そこにいなかった誰かと共有するために撮る。
メインは集合写真ではなく、集合写真へと集束するまでの過程―。
その場で体感した、空気、温度、質感、それを動かしたすべての出来事―。響き合ったすべての感覚―。その場で、ともに生きている実感―。
今日も最後に、晴哉先生の言葉をご紹介します。
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生きることの価値は、生きることそのものだ。
生きることの目的は、生きることそのものだ。
いま生きている、その生きつつあることそのものが、生きている意義の全部だ。
生きるためのいろいろの目的は、所詮、人間が造ったものに他ならない。
そんなことを感じている、稽古の日々です。
「I don't know why I keep taking pictures」
(なぜかはわからないけれど、写真を撮り続けてしまう)
↓白鳥さんの写真作品がこちらにありました。







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