「究極の家庭料理」を追究し続けている「御食事ゆにわ」が大切にしてきたこと、そして開業から20年間、そこに携わってきた人たちの変化、成長が描かれていました。
「御食事ゆにわ」は、私が16年ほど前、東京の飲食店に勤めていた20代の頃に、勉強で半年間通っていたお店でした。
当時は例えば、雑然としたところに置いたコーヒーと、キレイに整えたところに置いたコーヒーを、30分後にみんなで飲み比べて味の変化を共有し合う、みたいなことから、いろいろ体験させていただきました。いま思えば「観が動く」の連続でした。
そこでは、「場の持つ力」、「ものに対する自身の態度によって、ものもそれに応えてくれること」、「自分に適うものを選ぶ基準とは?」など、今の活動にも通ずる大切なことを教えていただきました。
◆
本日の上映会では、「光であると見立てるところから始める」という言葉が印象に残りました。
お野菜も、お魚も、ただの物体ではなく、本質は光であると捉えること。光として大切に扱い、調理し、有り難くいただく。
私は今朝も、道場のお花を生けなおして、昨日までと同様に稽古として写真を撮りましたが、明日は、「このお花も光であると見立てて」、生けて、撮影の稽古に臨んでみたいと思います。
「そう見立てる」って、いい言葉ですね。
私が教わってきた晴風学舎のJ先生が以前、次のようなことを話されていました。
******************************
「このヒザがバカになっちゃって」という見方を、自分で自分の身体に対してしまっていることが問題で、「バカなこのヒザ」という捉え方、つまり「身体観」がそこから動かないと、他動的に治療しても根本解決にはならないんだよ。
野口晴哉先生がいろんな著書や講義録の中で、そのようなことを繰り返し説かれているのに、読み手や聞き手側に、そもそも「固定化された身体観」という前提があるから、どんな話を聴いてもみんな自分の前提からでしか読み取ることができない。どんな言葉も自分にとって都合のいいように、無自覚に本来の先生の意図をねじ曲げて受け取ってしまう。
だからこそ、言葉でいくら説いても何も変わらなくて、その身体観が自ずと動くような、身体感覚を通じた稽古をやっていくしかないんだよね。
******************************
だから我々は、みんなで稽古をしていくわけですが、映画館とか講演会なんかでは、「場」の力が立ち上がっていて、ただ座って観ているだけなのに、その場のエネルギーに巻き込まれていくことが往々にしてあります。
今日もそんな場の力を感じました。特にビジネスで上映している映画ではなく、「自主上映会」ならではの、そこに関わる人々の想いが感応し合って立ち上がってくる場があるなあというのを痛感します。
何の気なしにそこに行くだけで、身体観が動かされてしまうような、長年の固定観念があっさりズラされてしまうような、それが、場の力だなあと感じました。
本日私は一人で観に行ったのですが、会場では、以前東京でお付き合いのあった方と十数年ぶりに偶然の再会を果たす、なんていうシンクロニシティもありました。
◆
「〇〇であると見立てる」こと。ここからいろんな稽古を展開していけそうです。昨夜は、「たすき」を使って立ったり座ったりするという一人稽古をやっていたのですが、昔の稽古日誌を読み直していると、「道具は感覚の代用になる」という言葉が出てきました。たすきを両手でピンと張って表れてきた感覚を扱うことによって、たすきを、身体の一部であると見立てているわけです。
「たすき」でどんな風に感覚の代用とできるか? それはまた、いつかの稽古で―。

