お花を生けるとき、写真を撮るとき、どこに焦点を合わせるか?
言い換えると、どこにスポットライトを当てるか?
誰を「主役」に立てるか?
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今日も同じお花を生けなおしました。そして、昨日と同じ手順で撮影してみましたが、スマホのスライド方向だけ、昨日と反対にしています。(昨日は右にズラして戻しパシャリ。今日は左にズラして戻しパシャリ)
昨日の投稿と同じく、左の写真が1回目、右の写真が2回目です。何か、違いを感じますか? 間違い探しではなく、印象の違い、感じ方の違いはどんなものですか?
今日は「スポットライト」「主役」という観点から写真を比べてみます。左右の写真で、それぞれ「主役」になっているのは誰だと思いますか?
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最初に撮った左の写真では、構図を決めようとしたときに中央の空間の奥にある、背の低い一輪に何となく惹かれて、意図してそこにピントを合わせています。一番奥からスッと立っている感じ、ひそめている感じに何となく惹かれていました。
そしてフレームに収める構図として、意図してその子を「主役」に立て、焦点をつくったつもりです。
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続いて2回目に撮った右の写真。昨日の手順に沿って、目を閉じて撮ったので自分の意図は介在していません。こちらの写真の「主役」は、誰に見えますか?
人によっていろんな見え方ができると思いますが、正面上の大輪のユリ(アルストロメリア/インカユリ)と、右下で画面外に向かって垂れ下がっているカーネーションの2者が、W主演になっているように、私には感じられます。
そして2人の主役を陰から支えているのが、1枚目の写真で主役だった奥の小さなカーネーションじゃないかなあと感じます。
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私がシャッターを切ったわけですが、2回目はそこに意図が無くなっているので「これは何なんだろう?」と自分で不思議がれる余地が生まれてきています。
自分の意志が薄れて、自分と花の関係が、「撮る側 × 撮られる側」という関係性から「一瞬を切り取るゲーム」に一緒に参加している「参加者同士」みたいな関係性になっているような感じがします。
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誰かがトランプを持ってきて、「ババ抜きしようよ」と言い出したとき、最初のきっかけを作ったのは一人だとしても、やがてみんなババ抜きに夢中になっていく中で、「誰がやろうって言いだしたんだっけ?」ってわからなくなるような―。
むしろ始めは「えー?面倒くさいよ。疲れてるからやらないよ」とか言ってた人が、最後にはムキになって勝ち負けにこだわってるとか、そんなことありますよね。
ババ抜きの主役が、始めは6歳の女の子だったのに、いつの間にかお父さんが場を仕切りだして率先してカード配ってるみたいな(笑)
最初は個々に別々の事情から、誰かの提案に仕方なく乗っかったハズだったのに、みんなが互いにその「場」に吸い込まれるように、巻き込まれていき、お互いがお互いを深い集注にいざなっていくような―。
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花園稽古場の始まりもそうでした。一番最初の稽古会、「道場開き」を4月19日に行ないましたが、そんなババ抜きのように、ここで道場をやりますと言ったのは私ですが、そこにいろんな人のエネルギーが乗っかってくる内に、私もそれに巻き込まれるようにして、スタートしたのでした。
稽古場を右京区花園で開くことを、身近な何名かにお伝えすると、「稽古日程決まったら教えてくださいね」という答える人が大半です。そんな中で、「この日なら行けます!」「この日にやってくれたら参加します!」というMさんのもたらした「勢い」によって、私の内的世界でも、4月19日に強制的にスポットライトが当てられました。
そして「その日」を一旦定めると、「ちょうどその日ならたまたま空いてるので行きます!」というYさんが引き込まれてきて、場が動き始めました。数日前まで、東京から引越してきた段ボールが積みあがっていた和室が、みるみる道場になっていきました。
どんなに小さな小石でも、池に落とせば波紋が拡がり、また跳ね返ってくる。そんなことを実感として体験している気がします。ふと気がつくと、道場を立ち上げていくこと自体が、晴風の稽古になっていました。
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冒頭のお花と写真もそうです。きっとすごいプロが生ければ、写せば、もっと感情を揺さぶるようなものができるのだと思います。
それはきっとすごいことだけれど、素人の私たちだって、そこに立ち現れてくる何かを、ともに楽しむことのできる感覚が、こんな身近なところにあるのだと気づくこと。そこからきっとが日常が豊かに、鮮やかに、輝き出していくのではないかと、私は晴風の探究をする中で感じています。
今日また、お花を生けなおしたことも、写真を撮ったことも、このブログ記事を書いたことも、これ自体が私の稽古であり、晴風の探究です。それは誰かに理解を求めるものでも、説得させるものでもなくて、意味目的が消えていくようなものです。
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と、いうつもりでやってはいるものの、書かれた文章を読み直してみれば、「ほらこの3行目とか、思い切り説得しようとしてるじゃん」とか、「この表現とか、意図して狙ってるじゃん」とかいうものが、書いていくとやっぱり表れてきてしまいます。
けれどそれは、書くことを始めたから捉えられたもので、ともかく下手でもカッコ悪くてもバカにされても、「やり始める」しか道はない。その先に、本当に求めているものがあるなら。下手さがバレるのを承知で、稽古をするしかないんですね。
全てパーフェクトには行かないことに、ガッカリしたり、腹が立ったり、思い悩んだり―、でもそれこそが、稽古の醍醐味であり、それを含めて面白がることができれば、全てが力になって、身についていく。そんな風に日々私は感じている、稽古の日々です。
「不正解かもしれないけどともかく自分なりにこう感じる」という身体感覚を用いてお花を生けてみること、身体の動きに集注して新しい写真の撮り方を試してみること、その身体経験を言葉にしてみることによって、自分が意志で当てていたスポットライトが動かされていくそのこと、それ自体が面白いと感じるから、やってるだけなんですよね究極的には。
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そのスポットライトというのは、言い換えれば「思い込み」とか「固定観念」という言葉にできるかもしれません。
自分の思い込みが、意図せず離れていく。同時に、何らかの執着が離れていく。「ああ、何だこんな小さなことに、自分はこだわっていたのか」「執着していたのか」と。それは、しがみついていた時には捉えることができず、離れていったときに初めて発見できるもの。
例えば爪切りをして、指から爪が離れたときに、無自覚だった爪の存在を手に取って感じられるとか。家の中にいる時には気づかなかったけれど、外に出てみたら「こんな色の家だったのか」と気づけるとか。勤めていた会社や、住んでいた町なんかもそうですよね。ある種の固定観念という枠から出たときに初めて、それが自分の観念だったと気づくことができます。
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それが何に繋がっていくのか、何の役に立つのか、それはわかりません。けれど私たちの生きていく力を支えている根源は常に、「論理的に教えられて理解できたもの」よりも、「よくわからないけどよさそうだと感じるもの」ではないかなと思います。
最後に今日も、野口晴哉先生の言葉をご紹介してまとめにしたいと思います。
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『背骨で息する』
だるいとき、疲れたとき、身体に異常感があるとき、心が不安定なとき、静かに背骨で息をする。腰まで吸い込んで、吐く方はただ吐く、特別に意識しない。
この背骨で息することを、五回繰り返せば心機一転、身体整然とすることが、直ちに判るであろう。
背骨で呼吸するといっても、捉えどころがないという人が多いが、捉えた人は、みんな活き活きしてくる。顔が全く異なってくる。
なぜだろう。平素バラバラになっている心が一つになるからかもしれない。生理的な働きが広まるからかもしれない。
ともかく、人間はこういう訳の判らぬことを、一日のうちに何秒間か行なう必要がある。頭で判ろうとしてつとめ、判ってから判ったことだけ行なうということだけでは、いけないものがある。
心が静かになったとき、自分の心に聞いてみるがよい。広い天体のうちの一塵である地球の上の人間が、判ったことだけやろうとしているその寂しさが判るであろう。
疲れたまま眠るより、乱れたまま心を抑えるより、まず背骨で息をしよう。その後でどうなるか、そういうことを考えないでやることが脊髄行気の方法である。
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(野口晴哉著『風声明語2』全生社より)
「ともかく、人間はこういう訳の判らぬことを、一日のうちに何秒間か行なう必要がある」という文言が私は大好きです。
花園駅前にあるビルの一室で、畳のすみっこに飾られたお花にスマホを向け、目を閉じている私は、明らかに「訳のわからぬこと」を毎日やっている一人です(笑)
窓の外を見下ろせば、ビジネスマンや学生さんたち、観光客の外国人たちが歩道を行き交っています。
この町が箱庭だとして、空から私たちにスポットライトを当ててみたらきっと面白いですね。「通りをゆく人 × 和室で目を閉じスマホを構える人」の対比。もしかしたら、他の部屋でも「訳のわからぬこと」に取り組んでいる人たちがそこかしこにいるかもしれない。
そして私もまた、一歩外に出れば、「通りをゆく人側」になるわけで、その境界線の行き来の際にもまた、身体感覚に集注すれば、身体のどこかにスポットライトが当たってくる様子を捉えられるのですが、それはまた、いつかの稽古で―。
ありがとうございました。

