2026年4月23日木曜日

はじめに

この2枚の写真。何か違うように感じますか?
さして変わらない、似たような写真ですか?
見比べるのではなく、身体で感じようとしたらどうですか?
違いをあえて表現しようとしたら、どんな言葉が出てきますか?

つい先ほど、以下のような手順で撮りました。
 
 
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①スマホで花の写真を撮ろうと構えてみる
②構図を決めて、1枚写真を撮る
③撮ったときの手の形をキープして目を閉じる
(以降最後まで目は開けない)

④集注し、暗闇の世界で、花の存在を捉える
→「あの辺りに花があるなあ」ぐらいに
⑤同じく自分の存在を捉える
→「ここに自分の身体があるなあ」
⑥花の存在感と、自分の存在感をそろえる
→感じる強さの強弱、感覚する色、大きさ、かたち、質感など
→そのどれか一つを取っかかりにして、そろえてみようと試みる

⑦スマホが、花と自分の間にあるのを感覚する
→「ここにスマホがあるなあ」
⑧スマホが今ある位置(空間座標的な)に集注したまま、スマホを横にスライドしていく
⑨何となく止まりたくなる位置で手を止める

⑩いま止まった位置に集注したまま、最初の位置へスマホを戻していく
⑪元の位置へ戻ったと感じた瞬間にシャッターを切る
⑫目を開けて、撮れた2枚の写真を見る。印象の違いを感じてみる
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もう一度写真を見比べて、左右どちらの写真が1回目、2回目だと思いますか?
答えはもう少しあとにして、この出来事を、違うシーンに置き換えてみます。

例えば「息子の旅立ちと帰省」だとして、捉え直してみましょう。

   ◆

仮に「花の存在観」が母親。「自分の存在感」が父親。「スマホを持つ手」が息子だとします。

1回目の写真は、旅立ち前の息子が見た母親の姿かもしれません。または父親視点と言えるかもしれません。

息子を送り出す前に、父と母の気持ちをそろえておきます。息子に対する想い、本心は個々にうず巻いているものがあるかもしれませんが、一度二人で意見をそろえた上で、「行ってこい」と背中を叩きます。

息子は故郷を想いながら出発します。自分の道を歩み始めた息子は、やがてふと、「故郷へ帰ろうかな」と思い、足を止めて振り返ります。新天地にて、なじんだつながりも背中で感じながら、再び故郷へと向かって出発します。

そして故郷へ戻り、実家のドアを開けた瞬間、家も、両親も、以前とは違って見えます。仮に2回目に撮られた写真が、「旅立った息子が帰ってきた瞬間の家族の空気感」みたいな感じとしたら、左右どちらの写真が、そのタイトルにふさわしいと感じますか?

   ◆

旅立つ前は、家族三人、個々にいろんな想いを抱えながら、新たな道へ進もうとしています。三人の表情にも、それぞれ別々の想いが表れていたかもしれません。

しかし息子が帰ってきたときの三人の表情は、照れくささと、懐かしさと、安心感が入り混じったような、「家族みんなが同じ顔」。誰が誰を見てもお互いに、「みんなの表情」と言えるような、そんな気がしませんか?

ここで一度、その感覚経験を除外してみます。起きた客観的な事実だけを説明すると、次のように言えます。

三人家族があった。一人が出ていった。二人家族になった。また一人が戻ってきた。元の三人家族になった。算数で言えば、「3-1=2」「2+1=3」で元に戻っただけです。

けれど私たちが感覚できる内なる世界では、何かが大きく動いて変化しています。最初の3と、最後の3では、全く別物の3になっています。

   ◆

私たち晴風学舎ではこの出来事を、「観が動いた」と表現します。「観」とは、「どのように物事を捉えているのか?」という態度のことです。息子が旅立ったことで、両親、子どもそれぞれの内的世界で、何となく「家族とはこういうもの」とそれまで無意識に捉えていたものが動かされていきます。

「失って初めて気づく」とよく言われますが、人生に何らかの展開があったときに、それまで無自覚だった感覚に初めて気がつくことがあります。その感覚を拾うことができた後に、状況としてはまた元の状態に戻った(失ったものを取り戻した)としても、そこには新しい「観」が立ち上がっており、以前と同じ感覚には戻りません。目には見えない何かが、前に進んでいるからです。

私たちは稽古を通じて、新しい「身体観」を開拓していこうと試みていきます。「身体観」とは、「どのようにこの身体を捉えているのか?」という態度のことです。

私たちの身体を、単なる健康か病気かという2択でみようとするのではなく、また筋肉量や心肺機能の優劣を表すものでもなくて、シワやシミや、お肌のハリという見た目の美しさや若さを示すというものでもなくて、別の観点で捉え直してみます。「晴風の探究」を基礎にして、新しい身体観に出会おうと試みていきます。「晴風」とは何か? それはこの後お話しします。

   ◆

「息子が帰ってきた日のあの空気」のような、実際体験したことがなくても何かわかる気がするような―、どこかでみんなが通じ合える共有感覚が身体に表れているのに、普段は存在しないかのように無視されている、ほんの小さな身体感覚。

私たちはそのわずかな感覚を足掛かりにして、健康も病気も、筋肉運動も心肺機能も、シワやシミも、そこにどんな感覚が生じてきているのか、まるでモンシロチョウの羽ばたきに耳を澄ませるように、身体のかすかな声に耳を傾ける稽古をしていきます。その中で、感覚を生み出す根源を捉えたときに、やがて大きな竜巻を引き起こしていける力が生じてくる場面に立ち会います。

そこで何が出てくるのか、意味も目的も忘れて、感覚経験に引き込まれていくとき、「観」が動き、まるで世界がガラッと変わったように思えます。一体何が起きているのか、うまく説明できないけれど、あの時何かが変わったことは確かだと、そういう体験は、誰しもがあるのではないでしょうか。

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「観」が動くとき、身体の中に確かに存在していた生命的な溌剌さが、実感として立ち上がってきます。野口晴哉(1911-1976)という人は、次のような言葉を残しています。
 
 
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まず自分から動くことだ。自分から出発することだ。

しかしその意欲も、背骨が弱いと生じない。
脊髄へ息を通すと自発的に動きだし、世界は為に一新する。

この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも、楽々悠々息しつづけよう。

そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹き過ぎる。

雪は白く、空は蒼い。
黒い雲の向こうはいつも蒼い。

世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。
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(野口晴哉著『風声明語』全生社より)
 
 
「野口晴哉先生」と私は呼びますが、先生には、どのように世界が見えていたのでしょうか。どのように人間を、身体を、捉えていたのでしょうか。

「背骨が弱い」とは?
「脊髄に息を通す」とは?

先生が遺した思想というか、心というか、生き様というか、何とも言葉にしがたい何かを、私たちは「晴風」と呼ぶことにして、「一般社団法人 晴風学舎」として、晴風を探究していく活動を行なっています。

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私たちは何かに「感動」したとき、ガラッと世界が変わったように思えます。そのとき身体では、胸が熱くなる人もいれば、胸が張り裂けそうになる人もいる。ほっぺたが落ちそうになる人もいれば、お腹が満たされる人もいるし、涙腺がゆるむ人もいる。背骨に息が通るという人もいるかもしれません。

構造上の肉体としての「体」とは別に、身体の中で動いているものを、私たちは「身」と呼びます。子どもが生まれたとき、肉親と別れたとき、試験に合格したとき、大谷選手がホームランを打ったとき、私たちの中でどんな動きが起こり、それが私たちにどんな生きる力を与えてくれるのか、「身」に集注することで感じられる世界を、共に開拓していこうとするのが、私たちの活動です。

花園稽古場では、畳の上に集まって体験した出来事が、例えばおうちに帰ってから台所でも、学校でも、車でも電車の中でも、会社でも研究室でも、病院でも介護施設でも、山でも海でも畑でも、個々の活動に向かう際に、新たな身体観から独自の切り口を開拓していけるような稽古を行なっていきます。

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最後に、冒頭のお花の写真ですが、左が「旅立ち前」、右が「帰省後に玄関を開けた瞬間」です。けれど、ここまで来たら正解だったかどうかはもはや、どちらでもよくて―。
写真を見て、文章を読んで、野口晴哉氏の言葉に触れて、過去の記憶がふっと思い出されて…、この瞬間、いま私たちの身体の中に、何かが動いているような、生じてくるような何らかの感覚があるなら―、それがたとえ、ほんのかすかな風のゆらぎのようなものであっても、目を閉じて、その「動き」にしばし集注してみます。

胸が膨らむような感覚、お腹が傾いていくような感覚、腰がねじれてくるような感覚、お尻が浮いてくるような感覚…。

それを言葉にすると、もしかしたらほかの誰かに、「そんなの無いよ」と言われるかもしれないし、友人に「妄想だよ」と、家族に「だまされてるよ」と、エラい先生に「それ間違ってるよ」と、または内なる自分に「ただのカン違いだよ」と諭されるかもしれないけれど、それでも「今、自分は確かにこう感じている」と言える絶対的な感覚をキャッチしてみるところから、ともかく始めてみます。これが私たちの稽古です。

次にその感覚に集注して、味わい、待っていると、その一つ先が出てきます。一体何が現れてくるのでしょうか?

そこから、ともに稽古を始めてまいりましょう。

一般社団法人 晴風学舎 技術研究員 山中一弘


※私はお花も写真も素人ですが、自分の稽古として、明日から引き続き写真をアップしていきます。道場の空気の変化を、ともにお伝えできたらと思います。